犬も食わぬなんとやら | ナノ

犬も食わぬなんとやら


 毛利の家内に、ぴしゃりと雷が落ちる。
「輝元様! 稽古のお時間だと仰ったはずですが?」
 ぱしん、と鞭を自分の掌に叩き付けながら隆景は廊下を歩く。ゆっくりと、しかし大きな音が立つようにして、彼の人を追いかけている。
「きょ、今日は体調が悪いのです」
 若き毛利の当主は、隆景の方向を向きながらじりじりと後退した。隆景がにこりと笑う。
「そうは見えませんが……ならば仕方ありません、本日は室内でじっくり療養なさって頂きましょう。私が付ききりでいます故」
「い、いえ、それには及びません!」
「稽古も出来ぬ程にお身体が悪いのでしょう?」
 輝元の背が壁にぶつかる。行き止まりではない、角を曲がって逃げようとしたのだが――その向こうからもう一人、叔父がやってくるのを見つけて輝元は閉口する。視線に気付いた隆景もそちらの方向へ目を移し、微笑んだ。
「おや、兄上」
「隆景、輝元。何してるんだ?」
「見ればお分かりでしょう」
「……まあなあ」
 元春は片眉を上げ、二人を見下ろした。
「これでも毛利の殿なんだ、あんまり虐めてやるなよ」
「虐めるなどと。私はお家のことを思っているつもりです」
「それは分かるんだがなあ。相手がお殿じゃな」
 ふうと溜め息を吐いて元春は輝元を見遣る。悪意がないとはいえ遠回しに貶された輝元は情けない気持ちになったが、事実なのだ。武術も兵法も向いていない。何とも頼りない当主なのかと、常日頃から自虐している。わざわざ改めて言われると、心に突き刺さるものではあるが――。
「特にお前は厳しすぎる。稽古くらい、他の奴に任せたらどうだ?」
「しかし、輝元様の教育は父上より私に一任されているのです」
「……全く、頑固な奴だ」
「兄上よりに心配される程ではございません」
 ふいっと顔を背ける隆景、またぴくりと眉を上げた元春。空気が一瞬で冷えたのを感じ、間の輝元は悲鳴を上げそうになった。
「どういう意味だ?」
「強情なのは兄上の方こそでしょう。私は正論を申し上げているだけでございます」
「それを頑固って言うんだろ。いちいち口煩いんだよ、お前は」
「くっ……口煩いとは何ですか。弁も立たなければ軍師失格でしょう?」
 不味い。
 輝元は、冷や汗を落とした。
 滅多にいがみ合うことのない二人が、自分をきっかけに睨み合ってしまっている。大人しい隆景が目に見えて厭味を言うとは、自分が苛立ちを与えてしまっていたからだろうか。心配は尽きない。
「この際だから言うがな、そんな物言いばっかしてると敵増えるぞ?」
「私が個人的な恨みを買うならば問題ありません」
「だから、そういう話じゃないっての。これでも心配してやってんだ」
「兄上は戦のことだけをお考え下さい。心配には至りませぬので」
「あー、可愛くねえなお前は!」
 両手を腰に当てて前のめりになり、元春は隆景の顔を直接覗き込んだ。隆景は涼しい顔で瞳を見つめている。今にも掴み掛かろうとでもせん雰囲気の元春に肝を冷やし、輝元は唾を必死に呑み込んで声を上げた。
「叔父上、喧嘩はやめて下さい!』
 その瞬間――二人は同時に輝元を睨み、同じ瞬間に怒鳴った。
「お前は」
「貴方は」
「黙ってろ!」
「お黙りなさい!」
 まるで戦場かという気迫に負け、輝元は「はい……」とか弱く頷いて腰を抜かした。――この二人は、本気だ。
「そもそも兄上たちが幸鶴丸を甘やかすから、私が折檻する羽目になるのです」
「お前が厳しすぎるってだけだろ? 責任転嫁だそれは」
「殿として崇めるだけの器を持って頂かなければ困るのです。私だけではなく兄上も」
「だからって希望ばかり押し付けるもんじゃない」
「……兄上は、私に説教をなさりたいのですか?」
 隆景は目を細め、ふうと溜め息を吐いた。
「幼い頃は兄上を尊敬していたものですが……」
 本題から逸れた――明らかに厭味でしかないその言葉が、何とか説得しようとしていた元春の冷静を燃やす。元春はとうとう、隆景の襟元を掴み上げた。それでも隆景が慌てる様子はない。
「お前こそ、本当に可愛くなくなったな。雪合戦で負けて再戦したときの方がまだ可愛気あったぞ」
「兄上の武は今でも羨ましく思っているのですがね」
「その他はどうでもいいってか?」
「まさか、そのようなわけがあるはずないでしょう」
 ――ん?
 渦中の輝元は首を傾げた。何か、ずれてきている気がする。論点が外れているのは始めの方からだったが、それ以上に何かがおかしい。絵面はまさに殴り合おうとする手前なのだが――内容が。
「お優しい兄上が口を尖らして私をお諌めになる、ということを、私は少々嬉しく思っているのですよ。それでこそ私の望む元春様であると」
「俺らの負担を受けようとするのもいいことだけどな、お前も大事な矢の一つなんだ。俺は、お前にばかり苦しい思いをさせたくない。今でも可愛い弟だからな」
「いえ……いや、そうですね。私は器に似合わない仕事を請け負ってしまっていたのかもしれません。だから兄上をご心配させ、八つ当たりしてしまうのですね」
 気が付けば元春の手は隆景の衣類から離れ、その頭を撫でている。変わり身の早さに輝元は愕然とした。先程までの一連は喧嘩ではなかったのか、と思ってしまうほどだ。
「たまには俺に甘えろ、隆景。弟の我が儘を聞くのも兄の役目なんだから」
「勿体ないお言葉……ですが、有り難く承ることに致しましょう」
 お互いに笑い、また隆景が大人しく子供扱いのような愛撫を受け入れているのを見て、輝元は嵐が去ったことを確信してよろよろと立ち上がった。これで、何とか逃げられそうだ。しかし淡い期待を抱いたのもつかの間、隆景の提案にまた肝を冷やすこととなる。
「では兄上、輝元様の稽古は兄上にお任せしてもよろしいでしょうか? 私は兵法をお教えしますので」
「まあ、その方が適任だろうな」
 ――諦めるという選択肢を下さい!
 心の中で叫んだ輝元など気にもかけず、兄弟は笑顔で触れ合うのだった。




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