川を挟んで厳島


 清盛と悟空らが人の心を縛り上げ操る術を扱うと聞かされてはいたものの、元春は実際に操られた人間を見た事はなかった。だが、迷いがあるから付け入られる――そう思っていた。それ故、変わり果ててはしまったものの、毛利家と因縁の深いこの厳島の地で清盛らに攻められた時とて、物理的な危惧しかしていなかった。
 しかし状況は不意に変わる。
『では、これを食らわしてやろう』
 生温く不気味な風が吹いた。風が吹き抜けていった方向を見送った元春は、自分の中に嫌な想像が浮かぶのを感じた。
 ――あの、方向は。
 やがて伝令兵から、小早川隆景が離反したことを知らされる。元春は馬に飛び乗り、水面を駆けた。暫く走ると慌てた様子の元就が目に止まり、そこで馬を止める。
「隆景は私にお任せを。父上は船着き場の方へお急ぎ下さい」
「だが……」
「父上と刃を交えることなど、あってはなりませんから。では!」
 元春は馬の腹を蹴り、再び本陣を目指した。
 この世界には似合わない、美しい鳥居と建物が並ぶ社が視界に広がってくる。続いて見えたのは倒れる兵の数々と、その中に一人佇む弟の――生気のない瞳。
 鳥居をくぐると元春は馬から降り、槍を手に歩き出した。
「――隆景」
 天を仰いでいた隆景がゆっくりと顔を元春に向ける。真っ黒いその目には何も映っていない。そこに心はない。
 隆景の口が動く。
「清盛様の……ために……」
 顎を軍配に乗せ、細い鞭を軍配の上に構える。軍配と鞭にはそれぞれ三味線のものともまた違う弦が張られている。隆景が目を伏せたのを見て、元春は槍を持ったまま耳を塞いだ。
 甲高い旋律に空気が震え、空の鳥が落ちた。耳を塞いでいても頭痛の走る音色だ、直に聴けば慣れていないものは気を失うこともあるだろう。音が止むと、元春は槍を構えて飛び込んだ。
「ったく、簡単に操られやがって」
 矢のような形をした槍を振るう。隆景は軍配を裏返し、槍を受け止めた。だが武では不敗の元春に利がある。すぐに軍配を弾き飛ばし、追撃しようとしたが――その前に元春は後ろへ下がった。先程まで自分が居た場所を鞭の先が通る。
「正面からやり合ってお前が俺に勝てるわけないって」
 槍を逆に持ち替え、元春は柄を隆景に向けた。危険を察知した隆景が何か反応を起こす前にそれを突き出す。脇腹を殴られた隆景は何歩か後退し、膝を突いた。元春の影がそこにかかる。
「さっさと目ぇ覚ませよ、隆景」
 ごほごほと咳き込んでいた隆景が元春を見上げる。その目はまだ、暗い。
「……あ、に……うえ……」
 ――だが、確かにそう発した。
 元春は目を閉じ、軽く頷いてその場に屈み――右手で拳を作ると、隆景の頬を殴った。勿論容赦はない。
 吹き飛ばされた隆景はきっと目を剥き、血で汚れた口元を拭いながら元春を見上げた。
「何をなさるのです、兄上」
「ばーか、お前が悪いんだろ。妖術なんかにやられやがって。父上が心配するだろ」
 元春は再び隆景の傍で屈み、今度は優しく額を突いた。隆景もすぐに冷静な顔つきに戻り、自虐気味に微笑む。
「……ああ、あの冷えた感覚……私は操られてしまっていたのですね」
「心に付け入る隙があるとかかりやすいようだ、って父上が前に仰っていたはずだがな」
 ふう、と元春が溜め息を吐く。隆景は急に表情をなくし、ぎこちなく立ち上がった。元春は腰を下ろしたままその行方を見守る。別の方向を見つめたまま、隆景は呟くように声を上げた。
「……武勇に優れる兄上には分かりまするまい。智の矢として毛利を支えようとすることの何と難しいことかを」
 元春は黙っている。
「どんなに努力したとて、父上に敵うはずはないのです。しかしそれでは毛利の矢たり得ない。兄上には兄上の、また隆元兄上にも隆元兄上の得意とする道があられる。父上の後ろを直接追うのは私だけです。その重圧がお分かりですか」
「……さーなあ」
 元春は頭を掻きながら立ち上がった。ぐっと背伸びをする。
「分からないよ、俺には。お前みたいに頭がよくないからな」
 でも、と元春は続ける。
「まあ……そういう泣き言は久し振りに聞いた気がするから、許してやるよ」
 散らばった軍配と鞭を拾い上げ、元春は隆景に手渡した。それから頭を掻き、笑う。
「このまま黙っているわけじゃあないだろ?」
 頬に痣を作った隆景も目を細めて笑った。だが兄とはいくらか笑顔の意味が違う。
「勿論です。この失態、返上しなければ小早川の、そして毛利の名が汚れてしまいましょう」
 背を向け足早に歩き出した隆景を見ながら、元春はまた笑った。
「ああ、その方がお前らしいぜ、隆景」
 隆景は地面に落ちようとした右足を止め、唇を震わせたが、それも一瞬のことだった。振り向くことをせずに歩き出し、鳥居をくぐる。
 背後の元春が馬を呼ぶのを音だけで感じながら隆景はぼそりと零す。
「その言葉がどれほど支えになるかも、兄上はきっとご存じないのでしょうね」
 北西の船着き場が奪還され、立花の援軍が到着したという知らせが入る。残っていた自らの兵を集め、隆景は軍配を振った。
「今が好機です。邪の法ごと、清盛を打ち破ってしまえ!」
 水と因果に満ちた厳島に、鬨の声にも似た歓声が上がる。
 その中を割って入るようにして元春は馬を走らせた。




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