興勢山蒼天異聞録


 俺は死なない。
 生きろ。
 そう喧しく言っていた男は、目の前で呆気なく死んだ。

 過去がやり直せることを、私は実際にそうやって遡ってきた竹中半兵衛らによって知った。記憶と思いがあれば過去へ戻り、助けられなかった誰かを助け出せると。
 私は――手伝うという複数名とその仲間の手を借り、忘れもしない瞬間の前まで戻ることとなった。
「……っ、きりがないな」
 斬っても斬ってもその数を変えない妖魔の大軍に向かって、宗茂が珍しく弱音を吐いた。口の端には赤いものが見える。『弱音を吐くな』、『この程度、どうとでもなる』。何度も同じような台詞を口にした。――何度も。
 私はもう、何度も同じ光景を目にしている。
 手持ちの戦力では全く足りず、人ひとりを助けるまでの力もなかった。下手をすれば私達まで死ぬような酷い戦なのだ。戦とも呼べない。これは、蹂躙だ。血で濡れた戦地の空を仰ぐ。空は暗い。矢が飛んでいる。
「ギン千代!」
 声が聞こえた。
 その直後、私は突き飛ばされた。嗚呼。これも、何度か巡ったうちの数回にあった光景だ。
 目を閉じていても分かる。
 鏃が、宗茂の首に刺さり。何も言わぬまま息絶える光景が。瞼の裏に焼き付いている。迸る血潮は私の頬を濡らし、私は、荒野を一人で駆け巡る。生きる為に。

「……また、救えなかったか」
 作り合わせの柵に背中を預ける。殺伐としたこの陣地も、もう見慣れたものだ。人は集まり始めている――だが、それでも圧倒的に数が足りない。軍師の才でも借りれば少しはまともに渡り合えるのだろうが、生憎、数少ない頭脳派はもっと重要なことで忙しい。
 それなりの兵力を有している名将で、劣勢をも跳ね返す天才。名だけは聞いたことがあるものの、未だ救出出来ていない人間ばかりだ。
 だが、それでも――私は助けたい。
「ギン千代」
 元の世界で、聞き慣れた声だった。
「……元就? 生きていたのか」
「いや、というより、生かされたという方が正しいのかな。ある歴史では、私は死んでいたようだから」
 元就はそう言っていつものように頭を掻いた。笑っていたその眉がすぐにへにょんと垂れ下がる。
「宗茂は……」
「まだ、だ」
 それだけ短く言い切る。元就は何かを察したのか、何も言わずに私の隣で柵に凭れかかった。
「記憶が追いつかない、ということかな」
「いや。奴は、私の前で死んだ。私の記憶があれば戻ることは出来る」
「だが、力が及ばない……か」
 元就は手を顎に沿え、考え込むような素振りを見せた。横目に、思う。この異世界においても息子や孫に慕われ従順な兵を持ち、かつては冷酷非情の謀神とも恐れられ、父をも苦しめた相手。音に聞く稀代の謀将が、隣に立っている。
「……宗茂は、私を庇って死んだ」
 口が勝手に紡ぐ言葉を、元就は黙って聞いている。
「散々勝手なことを言っておいて、最期はいとも容易く生を捨てた」
「……君を見捨てる、という恥を抱いてまで生き延びるよりは、あるべき形で散ることを選んだんだろうね」
「元就」
 失言したと思ったのか、元就は一瞬だけ背筋を伸ばした。
「“昔話”を聞く気はないか」

「――妖蛇が出現し、二人とそれぞれの兵を連れて逃げた興勢山で、妖魔軍に囲まれた。我らは退路を作るために戦ったが圧倒的な数の前に傷付き、宗茂は私に『お前は生きろ』とだけ言い、死んだ。その言葉通りに逃げた先で賈クらに逢い……その後の“正しい歴史”は知らぬが、ここに至る」
「……なるほど。戻ったところで、根本的に覆すことは出来ないのか。それ以上前の記憶があれば別だが……」
「もしくは、充分な才と兵力を持った人間が協力するか、だ」
 元就は首を傾げながら私を見た。怪訝そうに眉を顰め、そしてまた下げた。
「立花を護ると言っておきながら、私は……何も出来なかった」
 両手で拳を作り、指に力を込める。俯きたい気持ちを抑えて元就を睨んだ。
「元就。かつて父と渡り合った貴様の力を信じる」
 殴らんばかりの勢いで拳を振り上げ、元就の胸ぐらを掴む。
「宗茂を、助けてくれ……!」
 沈黙。数回鼓動の音が聞こえ、空気が震えた後に、元就はふうと息を吐いた。
「それじゃ、頼まれてるんだか脅迫されてるんだか。まあ、……」
 男にしては小さめな掌が頭に乗る。こちらを見下ろす黒い瞳は真剣さと穏やかさで濁っている。
「立花は私の大切な矢だ。それはどんな世界にあっても変わらないよ」
「……元就」
「それに、可愛いギン千代の頼みだ。断れるわけないじゃないか」
 元就はそう言って、首根っこを掴んでいた私の手に自分の掌を重ね、微笑んだ。
「じゃあ、早速軍議を始めようか」
 死せる謀神は漸く、その目を輝かせた。

 幸い、この頃は妲己の傍に居たから――興勢山の地図を前に元就はそう言い、いくつかの書を認めてから仙界の光に身を委ねた。
「妖魔の味方として、内通の情報を流す。これでも妲己の傍に置いて貰っていた身だから、信じては貰えるだろう。所詮は妖魔、人のように信頼関係を築くことはない。不和の種を蒔けたら充分、機を見て君達を撤退させれば歴史は変わる。時間を稼ぐために出来るだけ古い記憶でお願い出来るかな」
 興勢山の何処に降りたのか、元就の姿はなかった。本当に着いたのか、それすらも定かではない。だがやるしかない――何度でも。
 目の前には妖魔の軍勢が迫っている。
「宗茂」
 隣に居るはずの男を一瞥もせずに声をかける。何だ、と。懐かしい音が返ってきた。
「生きるぞ。何としてでも」
「……お前がそう言うとは珍しい。ま、元からそのつもりだが」
 剣を振り上げ、盾を構える。そのくらいは見えなくとも分かる。初めて体験する時間ではない。
 既に霞のような妖魔を睨んだ。暗い空と同じ色をしている。いつも同じ、淀んだ空だった。――風が、吹いた。立ち向かってきた妖魔を一人、二人と切り伏せる。山頂を通り抜けなければ脱出は出来ない。だが、崖の上には敵兵の姿がいつもあった――はずだった。目の前に立ちはだかる妖魔の数も少し減っているように見える。
 ――浮き足立っているな。
 情報が交錯しているのかもしれない。腕を上げ、宗茂に制止を促す。敵が向かう気配はない。
「何かあったのか……? どちらにしろ、これ以上下がることも出来ない以上は道を開けてもらうしかないわけだが……」
「案ずるな。道は開く」
 私はそこで初めて宗茂を振り返った。存外驚いたような表情で宗茂が見下ろしている。
「ギン千代、何を知っている?」
「教えて欲しければ、生きることだ」
 空を仰いだ。未だ重苦しい曇天、そして山頂付近の崖。そこに影が見えた。妖魔かと思って目を細めたが、違う。人だった。茶色の鎧を纏った兵が弓を構えている。中には烏 帽子を冠った人間も見えた。
「あれは……」
 宗茂が溜め息を零すのと殆ど同時に、上げていた奴の手が下ろされた。
「――放て!」
 妖魔の海に向かって矢の雨が降る。もう一度仰ぐと、もう烏帽子は見えなかった。混乱したいくらかの軍が山道を撤退しようと試みている。このまま見送り、通り抜けるだけでも目的は達成される。しかし元就はそれを許さなかった。元より大軍で身動きの取りやすい地形ではない。所詮は少数の人間と侮って攻めた妖魔はそれをあまり頭に入れてなかったようだ。退路は、崖の上からの奇襲によって塞がれた。前後を敵に囲まれていた私達だったが、局地的とはいえそれを覆す形となった。これ以上見守っていては背後に追いつかれる。
 混乱の中を、駆け抜けた。
 山頂の砦で元就が待っていた。
「やあ、全て潰すには些か兵が足りなかったようだね。敵が人のように複雑じゃなくて助かった、という感じかな」
「元就公……」
「元気そうだね、宗茂」
 元就は少しずつこちらに歩み寄り、宗茂の肩を叩いた。
「詳しいことは後で説明するよ。今は逃げることが最優先だ。妲己からの支援として来たわけだから、これより先の兵は未処理だが……そのくらい、君らなら何とか出来るだろう?」
 戦場にあるまじき優しさで元就は笑った。ある種の不気味さはあるが、それこそが元就なのだと思える。私は宗茂と顔を見合わせ、頷いた。
「ご助力感謝します、元就公。ここからは我らが貴方を護りましょう」
「例えたった三本でも、我らならば折れまい」
 風が吹いた。雲が揺らぎ、蒼天が垣間見えた。


 光の輪に導かれ、陣地へと降り立つ。元より何処かおかしい男だ、宗茂はそれほど驚いた様子を見せなかった。
「成る程、ギン千代と元就公のおかげで俺は死なずに済んだんですか」
 元就と陣地の案内がてら歩き回りながら話しているのを、少し後方から眺める。在るべき形。在るべき場所。やはり、落ち着く。立花は私一人ではない。
 自分でも珍しいと思う心境はこちらを振り向いて笑う元就の言葉で乱された。
「君が感謝すべきは私なんかじゃなく、ギン千代だよ。君を助けるために何度失敗しても諦めなかったんだから」
「――な、元就、何を!」
「そうか。ありがとう、ギン千代」
 宗茂は身体ごと振り返り、爽やかに――私を苛立たせる表情で、笑った。
「う……煩い! 貴様が不甲斐なくては、立花の名を傷付けることになる! だから私は――」
「相変わらずギン千代は素直じゃないねえ。それがまた可愛いんだけど」
「ええ、そうですね」
「……っもう知らん!」
 二人に背を向け、足早にその場を離れる。後ろから笑い声が聞こえてきたが、もう気には留めない。
 だが、これだけは確かに思う。
「――生きていてくれて、よかった」
 決して面と向かって吐ける言葉ではないが――その声は確かに、空へ溶けていった。




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