アメノウズメ | ナノ

アメノウズメ


 本を手に取りながら、元就は背後から近付く気配を感じていた。振り返ると障子に影が映っている。何かしらの約束を取り付けた記憶はなく、突然の訪問者であることは分かったが、だとすれば家臣達は何をしていたのか。これが何処かの刺客だとすれば――。一瞬の間にそう考えた元就は勿論、その影に敵意がないことを知っている。
 障子が開き、元就は開きかけていた本を閉じて文机に置いた。
「やあ、阿国さん」
 柔らかい空気を纏った出雲の巫女はにこりと微笑み、元就のすぐ前に立った。
「こんな明るいうちから閉じ篭ってしもたらあきまへんえ? お天道様も哀しみます」
「いや、せっかく暇が出来たんだからさ……」
 眉をへにょりと下げ、頭を掻こうと上げられた元就の手を阿国がそっと、しかし有無を言わさぬ早さで掴む。見上げた笑顔とは対象的に元就は顔を軽く引き攣らせた。
「あきまへん」
 阿国はその場所に膝をつき、掴んだ元就の手にもう片方の手も重ね、包み込んでから元就と目を合わせた。
「身体が閉じ篭ってたら、心まで暗なってまいます。これ以上真っ黒になってもうてどないするんどす?」
「っ、励ますのかと思えば……君は意外なところで辛辣だね」
「やあ。いっつも黒い黒い言うてはるのは、元就様の方どすえ?」
 わざとらしく目を丸くする阿国に流石の元就も観念したように苦笑し、自由な方の手で頭を掻いた。
「それで、今日はどうしてくれるのかな」
 その言葉を待っていた、とでも言うように――阿国は立ち上がり、元就の身体を引っ張り上げた。元就はふらつきながら、うわぁ、と情けない声を上げる。そのまま廊下を渡り、素足のまま庭に躍り出た。よたよたと付き従う元就は、家主でありながら、梅が咲いていることにたった今気付く。
「せっかくそのお手を汚してまで守ったお家が寂しいて泣いてまう前に、ちゃんと見てあげな可哀想どす」
「そう……だね。恥ずかしながら、私はこの庭に何が植わっているのかさえ知らなかったよ」
 裸足であることを頭の隅に追いやり、元就は砂利の上を自分の意志で歩き出した。徐々に暖かくなってきているので、木々にはちらほらと花がついている。今は梅が盛りのようだった。避けられない戦と謀、そして執筆業の他は人に任せきりで、元就は今になって庭の美しさを知った。
 池がある。覗くと水鏡になって、表情のない元就を映している。少し視野を広げると太陽も映り込んでいるのが見えた。
 ――お天道様、か。
 元就は心中で呟き、そして苦笑した。
 ――果たして、私にその下を歩く権利があるものか。
 その脳裏にはつい先日のやり取りが思い起こされている。

「君もすぐに、私に飽きるさ」
 何かと傍に寄る阿国に向かって、元就は張り付いた笑顔のままそう言い放った。
「誰に好かれるような魅力も、その権利すら私にはない」
「……へえ」
 いつも同じように笑っている阿国がふと笑うことを止めても、元就の顔から笑みが消えることはない。だが――心の底には、恐怖があった。
 その場所が屋外であったことだけは覚えている。阿国は雅な傘を手にしていた。普段は日傘に、いざとなれば人を殴る武器にもなる、とても重い傘だ。元就はよくそれを見ている。
 地面につけられていた傘の先が、僅かに浮いた。
「元就様は、うちの言葉が嘘やと思ってるんどすか?」
「……いや。だが、それが永遠に続く約束ではないと思っているよ」
「それを本気で言うてはるなら、」
 細められていた目がふっと開いた。真っ黒な瞳には元就だけが映っている。元就にはそれが、何よりも恐ろしい。
 紅い傘の先が、元就の足を踏んだ。軽く、浅く――だが逃げられぬように。
「うち、怒りますえ?」
 阿国は口元だけで微笑んでいる。後まで元就の脳裏に残るような冷えきった笑みだった――。

「天岩戸て、ご存知どすか?」
 回想に耽っていた元就を現実まで引き戻したのは、阿国のそんな言葉だった。振り向くと太陽に照らされた彼女が笑っている。何処に置いていたのか、いつもの傘を差して。
「太陽神が閉じ篭った場所、だね」
 元就は、阿国が自分の信仰心を知っていて言ったのだろう、と思った。でなければ、一介の巫女とここまで親しく接することもなかっただろう。また相手の方も、勧進をしてくれるような人間を見つけただけのこと。元就はそう信じている。
「ここは天岩戸」
 まるで唄うかのような声で阿国が語る。
「天照大神は一つの場所に閉じ篭って、蓋してしもうて。心の中も外も自分から塞いでしもた」
 元就は佇んだまま、それを黙って聞いている。
「どんな言葉で説得しても、無理矢理蓋を抉じ開けようとしてもそのお姿を隠したまんまの大神様。世を照らすお天道様がおらんなってもうて、みんな困ってはりました」
 にこりと笑い、阿国は空を仰いだ。
「結局何で天岩戸が開いたんか、知っとります?」
「ああ……」
 元就は紅白の着物を纏った巫女の姿を眺めて目を細める。
「女神の舞に他の神々が騒いで、それに興味を持って」
 その続きは阿国が拾った。
「天照大神は自分からお顔を出してくれはりました」
 阿国が傘を閉じる。そしてその先を下ろし、元就の方へ向けた。反射的にたじろぎ、元就は半歩後ろへ下がる。
 だが、阿国の口から紡がれたのは先日の静かな怒りに満ちたものとは違い、慈愛に満ちあふれた言葉だった。
「うちは、元就様の手も、元就様も、全部好きどす」
「……阿国さん、」
「せやから、ええ加減に信じてもろて、そこから出てきてもらわんと……とっとと出雲まで連れ帰ってしまいますえ?」
 ざり。
 砂利を踏む音だけが元就の耳に届く。眉を下げ、しきりに瞬きし、歯を食いしばる己の顔など他人に見せて、弱みを作って。ろくなことなんてない。そう思うのだが、目頭が熱くなってしまう。
 沈黙の末に元就は乾いた笑い声を響かせた。
「前のこと、まだ根に持ってたんだね」
 阿国は再び傘を差し、影の中で微笑んで言った。
「何のことか、うちにはさっぱり」




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