戦いの火蓋
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本当に、最初は大嫌いだったのだ。
自分だって弱いくせに、妙にお節介で、心配性で、そのくせ少し攻め立てるだけですぐ泣きそうになる。
そんなあの子を見ていると、私は昔の自分を思い出す。
泣き虫で葵の背中に隠れてばかりいた、まだ自分を人だと思い込んでいた哀れな自分を。
結局、私には何もできなかった。
本当に守りたかった人を、私はこの手で殺めることしかできなかった。
私は、私が嫌い。
化け物であることはどうしようもないことなのに、それでも僅かに残された情にすがろうとする。
非情になりきれない私が嫌い。
甘えている自分が嫌い。
何もできなかった自分が嫌い。
過去に囚われている自分が、一番嫌い。
そんな私を、あの子は好きだと言う。
ふざけるな。
お前だって一緒なんだ。
結局弱いだけで、口先だけで何もできやしない。
変わることなんてできやしないのに、何もできないまま死んでいくだけなのに。
けれど私は――
そんなにもまっすぐな目をしたあの子を、ほんの少しだけ羨ましいと思った。
* * * * *
「いつまで抵抗を続ける気なんだ」
ロザリアが屋敷に来て早数年。
いつも通り人間の血を吸おうとせず動物の血を啜り帰ってきたロザリアを、キースは静かな、けれど確かな激情を込めて睨み付けた。
「……無理なものは無理よ」
口元についた血を手の甲で拭いながら、ロザリアは反抗的にキースを睨み付けた。
見上げた先の顔はロザリアとは反対に血色も良く、生気に満ちている。
まとっている誤魔化しきれない血の匂いが、男が何をしていたのかを如実に物語っていた。
この数年間で、何度も飲もうとしたことはあった。
けれど、出来なかった。どうしても無理だった。
思い出すのは、過去に犯した過ち。
名前を変えたところで、過去の罪が消えるわけじゃない。
「まだ自分が怪物であることを認められない? 」
問いかけに、ロザリアは首を横に振った。
自分が化け物であることなど、ロザリア自身が一番よくわかっている。
「では――」
「前にも言ったでしょう」
ロザリアはキースに背を向けた。
「私は大事な人を殺めてしまった。……どうしてもダメなのよ」
「何も飲むために殺せとまでは言っていないじゃないか。人を殺人鬼みたいに言わないでもらえるかな」
キースはあからさまにため息をついてみせた。
「現に私も、最近は殺していないよ。少しばかりいい思いをしてもらっているだけで」
「昔は殺してたの」
「……私も若かったものでね」
バツの悪い顔で肩をすくめてみせたキースを、ロザリアはわざとらしく鼻で笑ってみせた。
「ようは加減の問題なんだ」
キースは大袈裟に咳払いをしてみせた。
「自分をコントロールするためにも、そう荒んだ生活をすることはおすすめしないよ」
「余計なお世話よ。……それとかっこつけてるとこ悪いんだけど、口紅、ついてるわよ」
お前の生活も十分荒んでいるだろ。
そんな嫌味を込めてロザリアは自身の首を人差し指で軽くたたいてみせると、階上の自室に戻るためキースの横を通り抜け階段へと向かった。
「君に私の私生活をどうこう言われる覚えはないよ」
背後から届いた険を帯びた声に、ロザリアは一瞬歩みを止めた。
「君こそ、いつまで意地を張り続ける気だ」
だがすぐに足を動かすと、キースの呼びかけを無視し、一目散に二階にある与えられた部屋へと駆け込んだ。
扉に背を預け、ずるずるとその場で膝を抱え込む。
分かっている。
口元を押さえ、胸元を強く掴み、ロザリアは煌々と輝く赤い目を鎮めようと必死に耐えた。
動物の血など所詮はその場しのぎであることは、ロザリア自身その身をもって重々理解している。
同居人のまとう匂いを嗅いだだけで発作が起きる程度には切羽詰まった状況なのも、十分理解していた。
もう無理かもしれない。そう思い、ロザリアは力一杯自分の手の甲を噛んだ。
瞬間壮絶な苦味がロザリアの舌を刺激した。
いつぞやと同じ味、言葉にならない異常なまずさに、ロザリアは床に思い切り含んだものを吐き出した。
床に手をつき、しばしその場で荒い呼吸を繰り返す。
目下に見えた手の甲の傷は、既に塞がっていた。
まだ正気を保っているうちに、早く人間の血を吸わなければ。
それは十分わかっている。
けれど――
思い出さずにはいられない。
葵の最期の瞬間を。この手の中で朽ち果てた少女を。
脳裏によぎった景色を振り払うことができない。
込み上げてくる嫌悪感と吐き気を払拭することは、これからも到底出来そうにはなかった。
そんな毎日が続いたある日のこと。
忘れもしない一際暑い夏の日のことだった。
いつものように食事を始めたキースの部屋から漂ってくる血の匂いから逃げるため、発作を落ち着かせるため、その日もロザリアは真昼間の森の中に繰り出していた。
屋敷から距離をおけば、生々しい血の匂いは薄まる。
適当にその辺にいた小動物の首根を掻き切り血をすすれば、激しい動悸はすっかり収まりを見せた。
だが、帰ったところでしばらくは屋敷中が血の匂いに満たされているだろう。
連れ込むのはやめろと言いたいところだが、所詮こちらは居候の身。
キースもそこまで口を出されてくはないだろう。
それに苦言を呈したところで、どうせ小言を言われるだけだ。
こういう時、ロザリアは決まって訪れる場所があった。
屋敷から少し距離はあるが、この森の中を抜けていけば屋敷のある山は高校の裏山に繋がっている。
突き当たりまで歩いていけば、ちょうどこの町の高校が見渡せる高台に躍り出る。
ちょうど人一人が腰掛けられる程度の小さな岩に腰掛け、ここから学校生活を送る地元の高校生たちを見守るのが、ロザリアの密かな楽しみだった。
ロザリアが人間だったのなら、葵と共に通っていたであろう高校。
木造建ての校舎はロザリアが華だった頃となんら変わっていなかった。
木漏れ日が、真っ白な肌の上に光の模様を紡ぎ出す。
叶うことのなかった夢。本来あるはずだった日常の一ページ。
当たり前の日常を送る彼らを、はるか彼方から見つめているこの時が、ロザリアは好きだった。
キースに知られたらまだ人間への未練を捨てきれていないのかと馬鹿にされることだろう。
だからこの時間は、ロザリアだけの「たからもの」だ。
乱雑に一つに束ねられた金色の髪が、柔らかく風に揺らいだ。
「あの」
その時、聞こえるはずのない声が聞こえた。
ここには人は近寄らない、そのはずだったのに。
大きく目を見開く。
恐る恐る視線を向けた先に、一人の少女が立っていた。
ロザリアより一回り以上も小さい、人間の少女だった。
「さっき、森の中でお姉さんのことを見かけて」
どもりながらも、はにかみを浮かべた少女が紡ぎだしていく言葉が、頭の中をすり抜けていく。
収まっていたはずの吸血衝動が、嘘のように甦ってきた。
「こっちは町とは反対方向だから、道に迷ったのかなって。――それで」
「余計なお世話よ」
ロザリアは、名も知らぬ少女に背を向けた。
腕を組み、黙って眼下の学生たちを食い入るように見つめていた。
いいから早く立ち去ってほしい。
怒鳴り声を上げたロザリアに、少女は少し驚いたようだった。
けれど、決して立ち去ろうとはしない。
少女は胸の前で両手を握りしめ、心配そうにロザリアを伺っていた。
「行ってって言ってるでしょう!? 」
「でも……」
立ち上がり、ロザリアは少女を睨み付けた。
「私は好きでここにいるの! 分かったなら二度とここにこないで! 」
牙をむき出し怒鳴り声を上げたロザリアに、やっと少女はロザリアに背を向けた。
それでもどこか心配げにこちらを見つめてくる青い瞳が、瞼の裏に焼きついて離れなかった。
瞳の奥に赤色がちらつき始める。
口元を押さえうずくまりながら、ロザリアは少女が大人しく立ち去ってくれたことに安堵した。
もう少し逃げるのが遅ければ――
そこまで考えたところで、ロザリアは思考を停止した。
とにかく今は、手を汚さずに済んだことに安心していたかった。
もう顔を見ることもないだろう。
そう思っていたのだが、その数日後、ロザリアは思わぬところで少女と鉢合わせることになった。
「あ」
声を上げたのはどちらが先だったのか。
屋敷の玄関先、ロザリアはしばしその場から動くことができなかった。
いつも以上に太陽の光が眩しく感じた。
「ほら、言った通りだっただろう? 」
背後から少女の両肩に手を置いたキースは、食事を終え帰宅したロザリアを、気味が悪いほどの満面の笑みで出迎えた。
ロザリアの姿を捉え、少女も安堵の表情を浮かべる。
「紹介しよう。私の「妹」、ロザリアだ」
「いつ私はあんたの妹になったのよ」だとか「なんでここにいるの」だとか、言いたいことは沢山あったはずだ。
けれど、何もかもが口を出ることもなく溶けて消えていった。
「あの、お兄さんに甘えて……勝手にあがってしまって、すみません」
少女の背後で笑いを必死に堪えているキースを、殴り飛ばしてやろうかと思った。
「私、ずっとお姉さんのことが心配で、それで……! 」
キースが少女に何か耳打ちをする。
何かに気付いたようで、少女はロザリアにぺこりと礼をした。
日の光が、少女の微笑みを柔らかく照らし出す。
「青桐由香(アオギリ ユカ)、です」
よろしくお願いします。
そう笑みを浮かべた小さな人間の少女に、目眩(めまい)がした。
「どういうつもりなの」
ロザリアの問いかけに、キースは応えない。
由香を押しのけ、美貌を歪ませキースに掴みかかった金髪の少女に、少女は混乱しているらしく、どうしたものかと視線を必死に二人に巡らせていた。
「言うまでもないだろう? 」
対するキースは一向に焦った様子がない。
必死に笑いを噛み殺すさまに、ロザリアは軽く殺意すら覚えていた。
男の襟元に刻まれた皺が深くなる。
「知らなかったよ。君の趣味がこんな」
「それ以上言ったら本気でぶっとばすわよ」
牙をむき出しにした子猫を見て、キースは笑う。
新しいおもちゃが見つかった、精々楽しませてみろと客席の中央に陣取ったつもりでいる。
どんなに血に飢えようとも、子供に毒牙を向けるほど落ちぶれてはいない。
「……あんたもあんたよ」
埒が明かないと判断したのか、ロザリアの視線は立ちすくむ由香へと向けられた。
びくりと肩を震わせた少女に微かな罪悪感が沸くが、ロザリアはあえてそれを無視した。
せっかく逃してやったのに。だからこそ、怒りが湧いてくる。
殺さずに済んだと、安堵していたのに。
「自分から獣の檻に飛び込んでくる馬鹿がどこにいるのよ! 」
「……すまないね、うちの妹が」
本気で茶番を演じるつもりなのか、キースは怯える由香の視界を遮るように、ロザリアと少女の間に割って入って見せた。
身をかがめ由香の両肩に手を置き、男が何事かを囁きかける。
「彼女と話を付けてこよう。だから少し……おやすみ」
同時に、糸が切れた操り人形のように少女の体から力が抜けていく。
地面に崩れ落ちる寸前、キースは由香の体を抱え上げた。
「選り好みしている暇が、果たして君にあるのかどうか」
ロザリアに背を向けたまま、キースは呟きをこぼした。
反論しようとして、黙り込む。
分かっている。
もう時間がないことなど、ロザリア自身が身をもって実感している。
「いいじゃないか。これくらいの子供なら、簡単に丸め込めるだろう? 幸い、彼女は君を心配しているようだし……好意は利用しておくのが得策だと、私は思うけれどね」
振り返った男は、口元に弧を描いていた。
この男は理想の王子様の顔をして、残酷なことを平気で口にする。
今だってそうだ。穏やかな笑みを浮かべたまま、食らってしまえと囁きかける。
「私は仲間として、一応それなりに君のことを気遣っているつもりなのだけれど」
どの口が言うのだろうか。
キースにとって、ロザリアは単なる玩具だ。
最初に深い水底から引き上げられたあの時と、何も変わっていない。
暇つぶしの道具、厄介ごとを抱え込んだ見世物。
「言っただろう? 殺す必要はない。加減さえ覚えてしまえば、あとは簡単なものだ。……君がこれからすることは、蚊と同じだよ」
さぁ、と少女の身を差し出してきたキースに後ずさる。
「生きるために血をすする。誰もそれを咎めはしない」
穏やかな寝顔だ。何の汚れも知らない、真っ白な子供の顔。
キースの腕の中にすっぽりと収まってしまう、ロザリアの外見よりも遥かに幼い少女。
肩より長く伸ばされた青みがかった黒色の髪の隙間から覗く白い首筋に、喉が鳴る。
「……でも、その子はまだ」
握りしめた両腕に、爪が食い込んでいく。
純粋な好意を利用しようとしている。
ロザリアの中にこびり付いた人間の情が、由香に手を掛けることを頑なに拒んでいた。
「覚悟を決めろ。――私たちは、人間じゃない」
男の静かな怒号が、ロザリアを突き動かした。
心臓を鷲掴みにされたような感覚に襲われる。
人間じゃない。そんな当たり前のこと、ずっと前から分かっていたはずなのに。
ゆっくりとキースの元へと歩み寄って行く。
数え切れないほどの小さな命を奪ってきた。
それだって、十分に異様なことなのに。
「その子を渡して」
強い意志を持った赤い目が、真っ直ぐにキースを射抜いていた。
差し出されたロザリアの両腕に少女を引き渡しながら、キースは珍しくも少し安堵しているように見えた。
「いいじゃない、人と違っても」
脳裏をよぎったのは、かつての親友の言葉。
償いきれない罪を犯した。
臆病だと笑えばいい、馬鹿げていると罵ればいい。
そうだね、葵。私は人じゃない。
――それでも、私は。
腕の中の少女の頬を思いっきり引っ叩く。
乾いた音を立てると同時に、由香のつぶらな瞳は驚きに見開かれていた。
赤く染まった頬に手を当てたまま間抜けな顔で見上げる瞳を、ロザリアはわざとらしく鼻で笑って見せた。
「あんた、寝てたわよ」
呆れ混じりの声が、由香の耳を刺す。
「ごめん。その……痛かったでしょう? 」
ぶんぶんと首を横に振る少女に、ロザリアは小さく笑みをこぼした。
「心配してくれたのは嬉しい。……けど、ここにはもう近寄らないで」
由香を地面に下ろし、スカートの裾を軽く払ってやりながら、ロザリアは由香の目を覗き込んだ。
「怖い鬼に、食べられたくなければね」
ロザリアの目が、由香の肩越しにキースを睨みつける。
呆れていると思っていた男は、むしろロザリアの想像とは反対に気分を向上させていく。
不気味なまでに口角を吊り上げている男に挑戦的な瞳を向けながら、ロザリアはきつく歯を食いしばった。
苦い、味がする。
二匹の鬼の戦いが始まった瞬間だった。
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