天使と悪魔
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天使の皮を被った悪魔は、ゆっくりと身を翻し由香へと一歩踏み出した。

「動かないで!!」

咄嗟に上げた叫びに叶夜の足がぴたりと止まる。
あくまで穏やかな笑みを保ったままで由香に接しようとする男に直面し、由香はまだ引き金を引けずにいた。
動け、動けとうるさく鳴る歯を無視し、由香は銃口を叶夜に向けたままだんまりを決め込んだ。
震えを律せずにいる由香に反し、叶夜の動きは軽やかだ。
優雅とすら形容出来る戯けた動作でまたしても由香に一歩近付き、困ったように苦笑いを浮かべてみせる。
この男は人殺しだ、騙されるなとばかりに赤い目がギラギラと闇の中に輝いていた。

「健気に妹を待っていたお兄ちゃんにその反応は、少し……いや、結構傷付くんだけどなぁ」

「……やめて」

「やめてって、何を?」

「今更、お兄ちゃんのフリをするのはやめて」

ぽかんと呆れたように、叶夜はその場に似つかわしくない間抜けた表情を浮かべて見せた。

「お兄ちゃんのフリ?……っぶ。ぐっ……は、ははは!! あぁー!!」

心底おかしいといった具合に、叶夜は腹を抱え、目に涙を湛え笑い始めた。
一通り笑い終わった後で、叶夜は由香のよく知る柔らかな微笑みを浮かべた。

「フリも何も、僕たちは血の繋がった兄妹じゃないか」

至極当然のように言ってのけた叶夜に、由香の中に迷いが生まれた。
目の前にいる人が誰なのか、分からなくなっていた。

「さ、疲れただろう?……少しお茶にしようか」

眼鏡をなくした瞳は轟々と赤く燃え盛っており、これが紛れもない現実であることを、もう戻れないところまで来てしまっている事を由香にはっきりと伝えていた。
トリガーにかけた指が震える。
こんな時にお茶など呑気な事を抜かす男に、由香は拍子抜けしていた。
叶夜は由香に背を向け当たり前のように家庭科室に置いてあったやかんでお湯を沸かし始めた。
晒された無防備な背中に、唖然としてしまう。このまま撃ち抜いてしまえ、そうすれば全て終わる。だが、目の前の背中は確かに由香のよく知る兄の物なのだ。動けなかった。
銃口を向けたまま、叶夜の所業を見守る。不穏な動きをすればすぐにでもトリガーを引いてやるという勢いでいたのだが、叶夜はいたって普通だった。
青桐の家で、港の家で、由香が見ていた家事をする兄の姿と同じ。
これは由香を惑わす為の作戦に違いない。分かっていても動けなかった。

「由香」

声をかけられ、はっと視線を上げる。
いつも通りの顔をして二人分のマグカップを持っている叶夜と視線がかち合った。

「ほら、出来たから座って。まさか立ったまま飲むつもり?」

人というのは、誰かを殺しておいてこんなにもいつも通り振る舞えるものなのだろうか。
ごくりと息を呑む。
その間に、叶夜は既に由香の向かい側に腰掛けていた。呑気な顔をして自分が入れたコーヒーを飲み、熱かったのかあっつと小声で漏らし苦い顔をしていた。ぽかん、と拍子抜けする由香を尻目に叶夜はあくまでいつも通り振舞おうとする。

「毒でも警戒してるんだったら、何も入れてないよ」

由香の分が入ったマグカップを持ち上げ、叶夜は「ほら」とおもむろにカップの中身を飲んで見せた。
おかしい、この状況で普通である方がおかしい。
だが、由香も相当精神的に切羽詰まっていた。束の間与えられた偽りの安らぎに、由香は恐る恐る叶夜の向かい側に腰掛けた。
銃を持ったまま、銃口を向ける事だけをやめ、じっと叶夜の動向を観察する。

「それ、飲まないの?」

「……いらない」

チョコレートの匂いがした。いつも兄が入れていたホットココアの匂いと一致する。
蘇って来るのは16年分の思い出だった。
由香はマグカップから目をそらし、じっと叶夜の赤い目を睨みつけていた。

「少しだけ、昔話をしようか」

それは、彼が内に秘め続けてきた記憶だった。

「昔々、人間の両親の間に生まれた一人の男の子がいました。彼は、物心ついた頃には、自分が他人とは違う存在だと気付いていました。周りの人間は皆自分より劣る存在、ただの餌でしかないのだと、男の子は知っていたからです。男の子はなんだって出来ました。テストだっていつも一番、運動も出来ました。ーーだけどね、男の子の両親は彼を認めてはくれなかった」

そこで、叶夜は一度コーヒーを啜った。
膝の上で拳銃を握る腕が汗ばんでいた。

「続きは……」

「殺したよ」

にっこりと清々しいまでの笑顔で言ってのける男に、寒気がした。

「鬱陶しかったから、殺した。それだけの話だよ」

「お話……なんだよね」

「そう、お話。これはただのお話だ」

話すに連れ、叶夜の目に宿る光は物騒な色を宿し始めた。

「男の子には妹がいてね。男の子は妹のことを大事に大事にしてたのに、ある日妹は男の子を裏切ったんだ。だから、男の子は愛しい愛しい妹に罰を与えることにした。本当に、大切にしてきたつもりだったんだけどなぁ」

ドロドロとした感情を込め、次第に顔からは表情が消えていた。

「ちょっと話しすぎたね。さて、もう茶番は終わりにしようか。由香も早く終わらせたいと思ってるみたいだし。……「お兄ちゃんごっこ」はおしまいだ」

次の瞬間、叶夜の姿が由香の視界から消えた。

「こんな物騒なものを持つなんて、由香は悪い子だね。お兄ちゃんは悲しいよ」

叶夜の声は由香の背後数センチから聞こえてきた。
はっと視線を上げれば座る由香のすぐ後ろに叶夜が立っていた。
一体いつの間に奪ったのか、先ほどまで由香の腕の中にあった筈の拳銃は、今や叶夜の指先で弄ばれている。

「返してっ!!」

立ち上がり拳銃を奪い返そうとする由香に、叶夜は眉を下げ困った風に笑った。
伸びをする由香の頭を片手で押さえ、もう片方の腕で拳銃を天高く掲げる。
その距離は到底由香が届く距離ではない。あからさまに顔色を青くする由香に、叶夜は心底楽しいと言った具合ににっこりと笑うだけだ。

「駄目だよ。せっかく由香の為に特別ゲストを用意したんだから」

由香の瞳が見開かれ、動きが止まる。

「可奈」

呼びかけに応じ現れた人影に、由香は喉元から「ぁ……」とか細い声を漏らし固まった。
にぃっと裂けんばかりの勢いで吊り上がった叶夜の口角が、不気味に闇に浮かんでいた。
それ以上に、可奈に引きずられ床の上に横たえられた息も絶え絶えな金髪の少女に、由香は思わず駆け寄ろうとした。
それを制止したのは叶夜の腕だった。

由香の頭を押さえていた腕を、由香の脇の下に回しがっちりと少女の体を掴む。
脳裏を過るのは最悪の結末だった。
もがき逃れようとする由香に追い打ちをかける。

「由香は僕を殺しに来たんだろう?」

「ごめん……なさい……っ!!ごめんなさい!!花嫁になれって言うならなります!!だからっ!だからもう誰も巻き込まないで!!」

「本当に悪いと思ってる?」

「思ってる!!思ってます……っ!!ごめんなさい!ごめんなさい!!もうお兄ちゃんに逆らったりしないから!!言うことを……っ……聞くから……!!」

「由香の気持ちは伝わったよ」

由香の絶叫に、叶夜の頬は緩んでいた。

「けどね、それじゃあ意味がないんだ」

満足気な笑顔を浮かべ、僅かな希望に輝いた由香を絶望へと突き落としにかかる。

「ねぇ由香。せっかくだし、ここで銃の撃ち方を憶えておこうか」

「やめて。いや。いや、いや、いやいやいや……っ!!ごめんなさい!!ごめんなさい!!」

「さて、可奈と……そっちの金髪。どっちを先に殺そうか」

正気とは思えなかった。
何より、青桐叶夜の口からそんな単語を聞きたくはなかった。
ぶるぶると震えながら首を横に振る由香に、悪魔は優しく微笑むだけだ。

「言っただろう? 罰を与えることにした……って。……ああ、本当に由香は可愛いなぁ」

びくり、と由香の肩が大きく震える。

「大丈夫大丈夫。……すぐに終わるよ」

由香の頬に顔を寄せ、ぼそっと囁きを落とす。
一向に頷こうとしない由香にしびれを切らしたのか、叶夜は可奈にちらりと視線を送った。

「そっか、お手本がないと難しいかもしれないね」

そう呟いて、叶夜は呆気なく、それこそ道端の石を蹴飛ばすかのごとく、由香を抱きしめたまま空いたもう片方の腕で可奈の脳天を撃ち抜いた。

「いやぁぁぁああぁぁぁあああぁぁぁあああああ!!」

絶叫が響き渡る。どさり、と呆然と立ちすくんでいた可奈が床に崩れ落ちた。
じわーっと床に静かに血が広がっていく。動けずにいるロザリアの髪を可奈の血が汚していく。

「う……ぁ……かなちゃ……あ……い、う」

おかしい。この男は正常じゃない。
いつから狂っていただとか、そういう次元ではなかった。
最初からおかしかったのだ。最初から狂っている。
でなければ、こんなにも簡単に自分を慕ってくれていた存在を殺せるはずがない。

「簡単だよ、由香にも出来る」

「ぁ……いや……いや、い、や」

「彼女も由香に殺されるなら本望だろう、ほら、しっかり握って」

由香がうわ言のようにつぶやき、銃を持つことをぶるぶると必死に身をよじり抵抗する様すら、叶夜は楽しんでいた。
喉の奥を鳴らし低く笑う姿は悪魔以外の何者でもない。

「……外道、が」

叶夜を見るロザリアの瞳は、激しい怒りに苛まれていた。
微かに体を起こし、叶夜を睨みつける少女には確かに迫力があった。

「由香」

流石にしびれを切らしたのか、叶夜の瞳が赤く輝きを増した。

「駄目!そいつの目を見ちゃーー!!」

ロザリアの叫びは一歩遅かった。

「い……やだ……っ!いや!!やだやだやだやだ!!いや!!いやだよ!!!いや!やめてもういやぁぁぁ!!!」

意識とは反対に、由香の体は叶夜に大人しく従っている。
上から叶夜にしっかり腕を握られているとはいえ、銃口は確実にロザリアに向きつつある。
目を閉ざし、顔を涙でぐちゃぐちゃにした少女に、ロザリアは怒りを募らせていく。

「由香をあんたの花嫁になんかさせない、絶対に」

「へぇ?この状況でよくそんなことが言えるね」

「由香、私を見て。絶対に、だい、丈夫、だから」

恐る恐る目を開ける。
ロザリアは笑っていた。穏やかに、慈愛に満ちた顔で。
いつの日か見たものと、同じ微笑みで。

「だって由香は、私が守るもの」

銃声と、絶叫が響き渡った。
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