アイレンZ
ーーーーーーーーーーーーーーー
ゆらゆらと、男が動く度に依織の体にも振動が伝わって来る。
男の背に当たった頬から、心地の良い体温を感じた。
男は歩み続ける。依織の体を支える腕からは力強さを感じ、まだ夢の淵を彷徨っていた依織は、微かに開いていた瞼をゆっくりと閉ざしていった。
心地の良い夜風が依織の短い髪を揺らす。
砂利道を踏みしめる耳障りな音が、やけに耳についた。

次に目を開いた時、依織の目に飛び込んできたのはいつも通りの天井だった。
しばらく呆然と天井のシミとにらめっこを続けていたのだが、昨夜の出来事を思い出すや否や急いで布団をめくり上げようとした。しかし、何故か体が持ち上がらない。
体の右半身に、謎の重みを感じる。
何事かと視線のみをそちらの方に向け、依織は思わず固まった。

「あなた、何してるの」

自分でも聞いたことのない低い声が、覆いかぶさるようにして穏やかな寝息を立てている宗介に対して発せられた。
依織の静かな怒号にも、宗介は全く動じない。
んー、と起きているのか寝ているのか判別のつかない声を立てた男に、依織の眉間に一筋のシワが入った。

「そ、う、す、け、?」

「痛ひ痛ひ!痛ひへふ!いほいはん!!」

無防備に晒されている頬を力強く引っ張ると、観念したかのように宗介は体を起こした。

「それで、何をしていたの。あなたは」

「うーん。強いて言うなら……夜這い?」

「は?」

「やだっ!いおりんこわいっ!!」

「気持ち悪い声を出さないで」

体を起こし半目で睨みつけた依織にも、宗介は全く動じない。
いつもの飄々とした笑みを浮かべながら、爽やかに笑ってみせるだけだ。
溜息を吐きながら、依織は枕元に置かれている眼鏡に手をかけた。

「まぁまぁ、そんな事言うなよ。それよりさ」

宗介の顔から表情が消えた。

「その首、どうしたんだ?」

手にしていた眼鏡が、布団の上に落ちた。
仕方ないなぁ、と眉を下げ笑いながら宗介は眼鏡を拾い上げる。
目を見開きあからさまな動揺を見せる依織とは反対に、宗介はいつも通りだ。
いつもと同じ顔で、その手で依織に眼鏡を掛けさせ、満足げに笑む。

慌てて首筋を左腕で抑えた。
指でなぞれば、小さな虫刺され跡のようなものが二つ残されている。
やはり、夢ではなかった。ほとんど塞がりかけているようだが、それでもこの家の人間を誤魔化しきれるとは到底思えない。

下げていた顔を上げれば、またしても表情を失った宗介の瞳と視線がかち合った。
傷を覆い隠していた左腕を掴み、罪を白日のもとへ晒し出す。

「誰にやられた」

宗介は見破っていた。
これが、虫刺されなどではないと。
吸血鬼により付けられた食事の痕跡なのだと。
一気に心臓の鼓動が早まっていく。
背には冷や汗が伝い、不自然に体温が上昇していく。

「誰でもない。これは、私が勝手に」

依織が続きを言うのを阻止するかのように、宗介は掴んでいた左腕を引き依織の体を引き寄せた。

「ずるい」

耳元で氷のような声が聞こえた。
呆気に取られ言葉を失った依織をいい事に、宗介は依織の首筋に顔を寄せる。
空いたもう片方の腕で依織の腰を抱き、深く溜息を落とす。

「ちょっ……と……っ!」

手足をばたつかせる依織の抵抗をものともせず、宗介は首筋の傷に、文字通り噛み付いた。
口付け、甘噛み。そんな言葉では到底片付けられない微塵の遠慮も感じさせないそれに、依織は涙目になっていた。
このまま首を噛み切られ殺されるのではないか。
婚約者に殺される、というのは流石にシャレにならない。
ワイドショーに取り上げられた日には悲劇の殺人事件とでも取り上げられるのだろうか。
痛みのあまりそんなどうでもいい事を考え出すほどには、依織は動揺していた。

「ば……っ」

喉からほぼ反射のように飛び出たそれに、ようやく宗介は牙を収めた。
ぜぇぜぇと涙目で荒い息を吐く依織を尻目に、宗介は満足げだ。
真壁による噛み跡が可愛く見える程度にはくっきりと残った自身の歯型を視界に収めると、宗介はごめんごめん、と全く悪びれもせず依織の体を強く抱きしめたまま呟いた。

「……悪いと思ってないくせに」

「これっぽっちも」

「痛い」

「そりゃ、痛くしたから」

じんじんと噛み跡が痛む。
もしや血が出ているのか。
出てはいなくとも、確実に内出血にはなっているだろう。
今も痛いが、その後の事を考えると頭が痛くなってくる。
國依と鷹子にどう説明すればいいのか。

飄々と笑っているだろう宗介が腹立たしい。

「跡、残ったらどうするの」

「俺は気にしない」

「そういう問題じゃ」

「いいじゃないか。どうせ、依織は俺と結婚するんだし」

依織の首筋に顔を埋め、宗介は安堵の溜息を吐いていた。
ぐりぐりと、幼子のように頭を依織に擦り付け、離れようとしない。
その間、依織はされるがままになっていた。
下手に刺激してまた噛まれてはひとたまりもない。

「あ」

突如、動きを止めた宗介が思い付いたように短く声を上げた。

「何」

顔を上げた宗介と真正面から見つめ合う。
またしても、宗介は無表情だった。

宗介の顔から笑顔が消えるのは珍しい。
基本的に、宗介はいつだって笑っている。
誰と会話する時も、嫌がらせをし返す時も、それこそ吸血鬼を殺める時だって笑っているのかもしれない。
仮面のような胡散臭い笑みを貼り付けて、本心では決して笑いはしない。
達観的で、本性は誰より冷酷な男なのだ。
いつもは屈強に塗り固められた仮面が、今は何度も何度もあっけなく崩れ落ちている。

「俺、頑張ってるんだ」

宗介が頑張っているのは依織も知っている。
大人顔負けだと、みんなが褒めているのだと。
だが、具体的に宗介が何をどうしているのかは知らない。
漠然と、依織の見ていないところで吸血鬼を屠っているだろうという事を聞いているだけだ。

「……頑張ってるんだから、いいよな」

何が、と聞こうとして開いた口を、何か柔らかいものが塞いでいた。
ガラッと、音を立てて依織の部屋の襖が開いたのは丁度その時だった。

「姉様、おはようござーー」

ピヨピヨという、呑気な鳥の鳴き声がやけに大きく聞こえた。沈黙。まさにその一言に尽きる。
國依は何が起きたのか理解できないのか、襖を中途半端に開けたまま固まっていた。依織も、キスされたという事実、それ以上に弟に見られたという現実に動けずにいた。
ただ一人、元凶の男だけが悠々と依織の体を抱き、名残惜しげに唇を離し、見せつけるように國依に向かって微笑んでいた。

「おはよう、弟クン?」

「お前ぇぇぇぇx!」

瞬間、張り裂けんばかりの怒号を上げた國依が宗介の胸ぐらを掴みあげていた。

「よし、百歩。いや、一万歩譲ってキスだけなら特別に半殺しで許してやろう。正直に白状しろ。ーー寝たのか」

自身の弟から発せられた汚い単語に、依織は咽せた。

「さぁ?ご想像におまかせしようかな」

「あぁ!?」

依織が咽せ、出遅れたのをいい事に宗介は國依を煽って楽しんでいた。

「お、おお、おお落ち着いて國依!何もしてない!何もしてないから!そもそもこれには深い」

「そうそう、俺とお前の姉様は朝からこんな事が出来る程度には深い関係に」

「誤解させるような事言わないでくれる!?とにかくこれには深い訳が!!」

「こらこら、朝っぱらから何を騒いで……」

その時、鷹子が渡り廊下から顔を出した。
再び沈黙が部屋を襲う。
全員が固唾を飲んで鷹子の言葉を待っていた。

「その……私は何も見ていません。大丈夫です。大丈夫、大丈夫……」

「鷹子、私達は別に何も」

「お嬢様。一人目は女の子でお願いしますね」

若いっていいですねぇ……と遠い目で意味深な笑みを浮かべたかと思えば、鷹子は居間に戻って行ってしまった。
それを追い、涙目になった國依も去って行ってしまった。

「姉様が穢されたぁぁぁ!!」

「ちょっ……違!!」

慌てて弁解しようとする依織を、宗介は背後から羽交い締めにした。

「大丈夫だよ。俺は穢れていようがなんだろうが、どんな依織でも愛し抜く自信がある」

「そういう問題じゃないでしょうが!!」

「えー」

「えー、じゃない!」

必死に拘束を振り払い、気づけば依織は荒い息のまま宗介の頬に思いっきりビンタを食らわせていた。

「この馬鹿!!」

まじまじと珍動物を見るように依織の顔を凝視している宗介に、依織はざまぁみろと内心ほくそ笑んでいた。
そのまま背を向け國依と鷹子を追いかけて行った婚約者の首筋を、宗介は黙って立ち止まったままじーんと痛む頬を押さえ、忌々しげに眺めていた。


*        *       *

「俺、心は広い方だと思うんだ」

学校に向かう道すがら、國依が小学校へ向かう道に逸れ二人きりになった瞬間、宗介が瞳を細め依織の包帯の巻かれた首に視線を落とした。

「でも、浮気だけは許せそうにないんだよなぁ」

「……浮気に含まれるの」

意外そうに眉を上げ、宗介は笑った。

「浮気だろ。俺以外の男に傷を付けられたんだから」

「相手が男とは一言も言ってないわよ」

「あれ、そうだっけ?」

言葉だけ聞けばとんだ恋人同士の痴話喧嘩だ。
宗介との仲はそんな可愛らしいものではないというのに。親の決めた婚約者。ただそれだけだ。
飄々とした仮面が男の顔を覆う。

「とにかく。依織は俺の奥さんなんだから、他の男に目移りしたら怒るぞ」

「そう」

「あ、本気にしてないだろ」

「そうね。でも貴方を怒らせると面倒だ、という事はよく分かったわ」

見上げた顔は本心を読ませてはくれない。
太陽の光が背後から刺し、宗介の顔に暗い影を落とす。
あの後、鷹子と國依を説得するのにかなりの時間を要した。一応未遂で終わった、という事にはなったが、それでも國依の宗介への怒りは当分は収まりそうになかった。
宗介も馬鹿ではない。
彼なりに、吸血鬼の噛み跡に対するカモフラージュとしてあんな事をしたのだろうが、それでも限度というものがある。
あの時は本当に喉元を食い破られるかと思った。

「そうそう、俺は怒らせると怖いんだ。だから」

宗介の顔から笑顔が消えた。

「奴とはもう関わるな」
≪back | next≫
- 69 -


目次へ


よろしければ、クリックして投票にご協力ください。
 



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -