報酬と代価
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流石に水族館の空気にも慣れ、由香はようやく普段の落ち着きを取り戻していた。
はしゃぎ過ぎた午前中の事を考えれば、頭を抱えてしまい、今すぐにでも穴があったら入りたい気分だった。

大人しく由香を眺めているだけだったキースも、午後になり彼もようやく本調子になってきたのか、由香の良く知るキースに戻っていた。

「由香、あっちにイルカがいるよ」

由香の前方を館内案内図片手に、人だかりの出来ている水槽を指差してみせる。

「あ、は、はい!」

それでも、やはり興奮してしまうのは隠せず、イルカという単語にようやく冷めかけていた思考を再び熱が支配していく。
駆け足気味でキースの元に向かい指の先を追うと、15メートルはあろう広い水槽の端から端までを力強く泳ぐイルカが目に映る。

「凄いですね……」

「そうだね」

笑い混じりに頷くキースの声にふと頭上を見れば、柔らかく細められた目と視線がかち合う。

「どうかした?」

「い、いえ……な、なんでも」

「少し歩くのが早かった?」

「そ、そういう訳じゃないです。た、ただ何となく見てしまったというか……ほ、本当に深い意味はなくてですね」

慌てて御託を並べるが、むしろかなり恥ずかしい事を口走っている事に気付き咄嗟に口を噤むも、時既に遅し。
心底微笑ましいといった具合に笑う顔に、顔は赤らみ始める。

展示に集中しようとイルカに視線を戻すも、頭上からの視線が気になって仕方がない。

「そろそろ次に行こうか?」

「そ、そうですね!」

平然としているキースとは反対に、声はうわずり挙動も不審。
しばらく展示に集中等出来る訳もなく、由香は顔を赤くしながらずっと一人キースの視線と戦っていた。

戦いの終焉が訪れたのは、この水族館のメイン展示である大水槽の前に着いた時だった。

大きな水槽の中をジンベエザメと強大なエイ、小魚達が泳ぐ幻想的な光景。
キースの視線もなんのその。
圧巻のスケールに頭の中は真っ白になり、純粋な高揚感だけが頭を占める。

「わぁ……」

子供のように自然に口をついて出た感嘆符。
キースも口には出していなかったが流石に驚いたのか、真剣な眼差しで水槽を眺めていた。

「大きいね」

「……大きいですね」

10メートルはあろう全長、どんな生き物でも飲み込んでしまいそうな大きな口、ジンベエの名が表すように、青と白の斑点模様の背中。

「一緒に泳いでる魚は、食べられたりしないんでしょうか」

「それは大丈夫みたいだよ。ジンベエザメは、サメという名前は付いているけれど海水中のプランクトンを食べている生き物のようだし。それに、きちんと1日2回餌を貰っているようだから、その心配はないと思うよ」

解説の書かれたパネルを見ながら、キースが口を開く。

「へぇ……」

素直に感嘆符をこぼし、優雅な動きに見とれる事数分間。
唐突に館内放送が鳴り響いた。

「本日は当水族館に起こし頂き誠にありがとうございます。当水族館は、夜五時を持ちまして閉園致します。隣接のミュージアムショップは七時まで営業しておりますので、ごゆっくりお楽しみください」

「も、もうそんな時間ですか!?」

由香の言葉にキースが不意に腕時計を確認する。

「今の時間は四時三十分。楽しい時間が過ぎるのは、意外にも早いものだね」

本当にその通りだと思う。
感覚的には食事が済んでから二時間も過ぎていないように思えるのに、かなりの時間過ぎているとは。

「あの、もう少しだけ見ていても……?」

ミュージアムショップは七時までやっていると言っていた事だ。
もう少しだけ、この優雅で大きな生き物を眺めていたかった。

「構わないよ」

「ありがとうございます……」

目に焼き付けるように、ジンベエザメの姿をじっくりと見詰める。
それからどれくらい経ったのか分からないが、キースは文句一つ言わず由香の横に黙って佇んでいてくれた。彼自身も純粋にあの巨大な魚影に見蕩れていたのか、それは定かではないが、由香はキースに向き合うとぺこりと礼をした。

「……お待たせしました」

「構わないさ。なんならもっと見ていっても構わないけれど」

「大丈夫です。しっかりと目に焼き付けましたから」

小さくガッツポーズを作り口元に笑みを浮かべキースを見上げる。

「それじゃあ、行こうか」

「はい……!」

おもむろに差し出された腕に自身のそれを重ね、ゆっくりと歩き出す。

「皆にお土産買わないと」

「優しいね。そこまで気遣わなくてもいいと思うけれど」

「い、いえ。いつもお世話になっているので……。ロザリアちゃんとキャロラインさんの分もちゃんと買わないと」

あの二人に一番迷惑を掛けている気がするのだ。
キャロラインは受け取ってくれるかすら怪しいが、ロザリアなら喜んで受け取ってくれる気がする。

そうこうするうちに、出口を出てすぐの所にあるミュージアムショップにたどり着いた。

「あの、ロザリアちゃんってどういうのが好きか分かりますか?」

買う気満々に、買い物カゴ片手にキースに問いかければ顎に腕を当て真剣に悩む横顔にかち当たる。
それすらも絵になっていて、それは反則ではないかと咄嗟に顔を逸らす。
何事もなかったかのように、平然としてキースは眼前にあった可愛らしいペンギンのぬいぐるみに手を伸ばした。

「あの子には、こういうのでいいと思うけれど」

「やっぱりぬいぐるみ……ですかね……」

「可愛いものはそれなりに好きだった筈だよ」

キースの助言に、じーっと眼前に広がるぬいぐるみの山とにらめっこを続ける。

と、不意に一つの人形の前で視線が止まった。

「これ……」

それは先程由香か夢中になって見ていたジンベエザメを、可愛らしく30cm程のサイズにデフォルメしたぬいぐるみだった。
抱きしめるのには丁度いいサイズだ。

脳裏でロザリアが抱きしめる姿を思い描きながら、それを再現するように、自分でぬいぐるみを抱き、確認するように、恐る恐るキースの方を向いてみる。

「ど、どう思いますか?」

返ってきたのは無表情と沈黙だった。

「あの、キースさーー」

「買おう」

即決したその顔が妙に興奮し嬉々としていたのは気の所為だと信じたい。
そうしていつの間にやら自身の持っていたカゴに先程由香が抱いていた人形をそっと放り込んでいた。

「あの、なんでキースさんが」

「……由香」

「は、はい?」

「いくらでも強請ってくれて構わないから」

言い切ったキースは真顔だった。
何故だかそれが酷く恐ろしかったのを覚えている。恐ろしい、というと語弊がある。
異常なまでの気迫を感じたのだ。
気迫というか、情熱というか。
とにかく、言葉に出来ない何かだ。

そっと、キースの顔を見なかった事にして自分のカゴに先程の人形を放り込む。

とりあえずロザリアの分は何とかなった、次はキャロラインの分の土産を探さなければと、再びキースの顔を見る。

「あの、キャロラインさんって、やっぱり実用的な物の方が喜びますよね?」

「まあ、そうだろうね」

キースは先程の異様な興奮は何処へやら、至って真面目な顔に戻っていた。
やっぱり気のせいだったんだな、と記憶から今にも鼻血を出しそうな顔をしていたキースを抹消し、そそくさとキッチン用品のコーナーに向かう。

そこで、ジンベエザメの可愛らしい鍋つかみをカゴに放り込み、次は港家の面子への土産かと、食べ物のコーナーへと歩を進める。

人数も多い事だし、分け合って食べられるものがいいだろうと、無難にクッキー缶をセレクトする。

兄には何か個別で上げなければならないだろうと、文房具のコーナーに向かいシャーペンとボールペンのセットをカゴに入れる。

そうして、ふと、目に留まったものがある。
それは手のひらサイズの小さなジンベエザメのマスコットがついたストラップだった。

(キースさん、こういうの好きかな……)

少々女々しいだろうか、と考えを巡らせるが乙女な思考ではろくな考え等出る筈もなく、気が付けばカゴの中に放り込んでしまっていた。

ふと、後ろを振り返ればキースの姿がない。
何処へ行ったのかと店内に視線を這わせると、大きな袋片手に店の外から手を振る人影と視線が合う。

一体いつの間に買い物を済ませたのか、という疑問を抱きながら自身も済ませてしまおうとレジへと向かう。

思っていたよりは安い金額で済み、急ぎ足でキースの元へ駆け寄る。

「す、すみません。遅くなりました……!」

「構わないよ。私は買い物をする由香を十分堪能させて貰ったし……」

「キースさん!」

「冗談だよ、冗談」

声を上げ笑う姿は相変わらず掴み所がない。

笑いが収まった頃、キースは不意に片手に持っていた大きな袋を由香に差し出してきた。

「あの……」

「いいから」

渋々受け取り中身を確認すれば、先程キースがカゴに入れていたあのジンベエザメの人形が入っている。

「ずっと見ていたけれど、結局自分のものは何一つ買っていないだろう」

「で、でも、こういうのは、その、ロザリアちゃんみたいな可愛い子に似合うのであって、私なんかには……も、勿体無いです」

謙遜すれば、困ったような笑い顔が返ってくる。

「……ねぇ、由香。由香は代価を払いたい、と言っていたよね」

確かに昼食時にそんな会話をした。
何故今その話を掘り返してきたのか。
唐突に一体何を要求されるのかと身構えていた由香に対して差し出されたのは、一枚のチケットだった。

「私の我が儘に、付き合って貰える?」


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