身代わり
ーーーーーーーーーーーーーーー
おやすみという言葉を残し、叶夜が部屋から去った後、取り残された由香は何とも言えない心境にさせられた。
この感情をどう処理すればいいのか分からない。ただ由香の中に残ったのは奇妙な違和感だけだった。

考え過ぎてもどうにもならないと、早々に眠ってしまおうともう一度ベッドに倒れ込んだ直後だった。

「青桐由香」

凛とした確固たる意思を感じさせる声音で、由香の脳裏に低めの女性の声が響いてきた。
そんな風に敵意を込めて名を呼ぶ人は由香の記憶の中に一人しかいなかった。

(キャロライン……さん?)

きょろきょろと室内に視線を這わせ、もしかすると、と自室の窓から地面を見下ろす。
外に、闇夜に溶け込む黒いメイド服の女が立っていた。 ぴしりと伸ばされた背が、彼女の美しさを強調させている。
月光に照らされた赤毛と包帯が不気味に輝き、更に彼女の纏う底無しの闇を増幅させている気がした。

キャロラインは闇夜の中、赤い目で真っ直ぐに由香を見据えていた。
初対面の時から、そんな彼女の値踏みするような視線が苦手だった。
キャロラインの立ち姿からただならぬ雰囲気を感じ、由香はぐっと胸の前で両手を握り締めた。

五月頭とはいえ、まだ少し夜は肌寒い。
カーディガンを羽織り、ふと、どうにも持ち運ぶ勇気がなくて、あの日から机の上に置きっぱなしにしていたロザリオに目が向いた。
磨く事は欠かさなかったので輝きは失われてはいない。月光の元、由香に対して危険を知らせるように、それは鋭く輝いていた。

キャロラインが由香に対してよくない感情を抱いているのは分かりきっている。
彼女の事が信頼出来るのかと言われると、うんとは言い難い。

(……キャロラインさんには悪いけど、おまもりの意味も込めて)

いざとなればこれで反撃するしかない。
そもそも、そういう自体にならずに平和的解決が出来れば一番なのだが。

由香は十字架を手に取ると、初めてそれを首から掛けた。そっと服の内側にしまい、一応外からは見えないようにする。
これを着けていれば、守ってもらえそうな気がして。
きっと何事もないのだと信じて。

由香はそっと、家を抜け出した。
自分の方へ向かってくる由香を無表情に捉え、キャロラインは赤く輝く眼で、初対面の時と同じくに値踏みするように 、由香の目の奥を真っ直ぐに射抜いてきた。

凄んでしまいそうになるのを必死に堪え、由香は服の上から十字架を掴み、一歩、また一歩とキャロラインに近付いていった。

「やっぱり私には、理解出来ない」

キャロラインの第一声はそれだった。
軽蔑の眼差しを由香に向け、キャロラインはそれまでの硬い口調はどこへやら、彼女の見目の割には幼い、それこそ由香と同じ年頃の少女のような言葉遣いだった。
それでいて、言葉の端々に隠し切れない嫌悪感がにじみ出ていた。
彼女は由香に憎悪の感情を向けながら、眉を潜めていた。

「何故貴女を選んだのか、私にはどうしても理解出来ない。貴女だって分かっているのでしょう?不相応だ、自分にあの二人は荷が重い。……図星でしょう?」

確かにずっと思っていた事だ。
何故自分がここまで愛されているのか。
あの二人から執拗に向けられる愛はなんなのか。未だに由香にはそれが理解できていない。
過去に何か重大な事があったのだろう事は分かる。だが、それ以外は本当になんの記憶もない。それどころか、あの二人の存在すら由香は知らなかった。

「……そうやって、無条件に愛を受け入れている人間が、私は許せない。自分が恵まれている事に気付かずにのうのうと生きている貴女のような人間が一番嫌いです」

キャロラインはもう無表情を保ってはいなかった。
苛立ちに顔は歪み、怒りに打ち震える様子は、見ていて、不思議な事だが憐れに思えた。
怒りで別の何かの感情を無理やり押し込めている。由香にはそんな風に見えた。

「……貴女に何が分かる」

喉の奥から絞り出たキャロラインの声は、どこまでも虚しかった。

キャロラインは、懐に忍ばせていたのであろう、包丁の切っ先を由香に向けた。
鋭く光る刃に悪寒がした。

「貴女に聞いておきたいことがあります」

「なん……ですか……」

凛としたキャロラインの声とは反対に、由香の声は情けなく震えていた。それが更に彼女の怒りに触れたのだろう。
キャロラインは忌々しげに舌打ちすると、その苛立ちを無理やり飲み込み、元の取り繕ったような無表情に戻った。

「貴女は、誰を選ぶおつもりですか?」

「え……」

「もっと具体的に聞きましょうか。……貴女は、キース様を選ぶおつもりですか?」

核心を衝かれた気がした。どくんと激しく心臓が脈打つ。
キャロラインの前で誤魔化してはいけないと思った。まだ心が決まっていないのだといえば、この場で刺し殺されそうな勢いだった。

いつまでも悩んでいる訳にもいかない。
ここで、心を決めてしまうしかないのだ。

「その……つもりです」

言ってしまえば、全て吹っ切れてしまった。
今まで悩んでいた事など馬鹿らしく思えて、由香は確固たる意思を持ってキャロラインの目を見つめ返した。

選ぶといえば言葉は悪いがそれが的確な言葉なのだろう。
そして、選ぶと云う事は、そのつもりはなくても選ばなかったものは捨てるという事になる。

「そうですか」

由香の答えを聞いたキャロラインは、包丁の切っ先を由香に向けたまま、にっと不気味なまでに純粋に微笑んでみせた。
今まで以上に増した殺意に、ぞわっと肌に鳥肌が立った。まずい。これは本当にまずい。

この場で殺される。

直感的に悟り、動くもキャロラインの動きの方が早かった。

「お前はここで死ね」

間一髪のタイミングで避けるも、静かな声と共に包丁が由香の頬数センチの所を掠った。
微かに頬に走る痛みに頬を押さえると、手には確かに血が滲んでいた。

反撃等と悠長な事を行っている場合ではない。
反撃等出来る訳がない。
甘かった。相手は人知を超えたものだ。
それを、近頃では忘れていたのだ。

ロザリアとキースは由香に対してとことん甘い。そんな二人を目にしていたからこそ、吸血鬼というものの本質を分かっていなかった。

人外の魔。
赤い目を底無しの憎悪に濡らし月を背に立つ彼女は、正にそう形容するに相応しかった。

「手加減しているんですから、もっと上手く避けてください」

顔を歪め、キャロラインは不気味に笑った。
殺意に満ちた笑みからは、恐怖以外のなにも感じる事が出来なかった。
由香の背後の木には、深々と彼女の投げた包丁が突き刺さっている。
掠っただけでこれなのだ。
まともに当たっていたら確実に死んでいた。
キャロラインは本気だ。
彼女は本気で青桐由香という存在を消しにかかっている。

逃げなければならない。

直感的に察知し、由香はキャロラインに背を向け全力で走り出した。
何処へ向かうか等考える余裕等ない。
あるのは、死に瀕した生き物としての純粋な逃走本能だけだった。

キャロラインはその目に逃げる由香の背を写しながら、木に突き刺さった包丁をゆっくりと引き抜いた。

吸血鬼である彼女にとって、所詮は餌に過ぎない人間の女の抵抗など痛くも痒くもない。
少し目を凝らせば、夜闇の中を走る由香の姿が手に取るように見える。

ぜえぜえと息を切らし、膝に手をつき憔悴しきっている馬鹿な人間の女を殺す事など容易い。

「案外諦めが早かったですね」

「っ……!!」

一瞬で数百メートルの距離を詰め、背後からゆっくりと近付いていく。
声にならない悲鳴をあげ、腰を抜かし、瞳を大きく揺らす由香にキャロラインはふっと自然に笑みを零していた。

よく見れば、胸元で何かを掴もうとしているように見える。
祈るように両手で握り締め取り出された銀色のものに、キャロラインは嘲笑を浮かべた。

「貴女に人を傷付ける事が出来るんですか?」

「そ……れは」

動揺からか激しく震える眼前の女に更に苛立ちが募る。

「貴女は甘い。甘すぎる。そんなものは決意とは言えない。だから、私なんかに殺されるんです」

眼下の女にもうなんの感情も沸かない。
キャロラインは、高々と両手で包丁を天上に掲げた。

「死ね」

ぶすりと包丁の切っ先が女の柔らかい肌を深々と切り裂く。
毒々しい色の血が辺り一面を真っ赤に染め上げていく。

獲物から刃物を抜く事すら忘れ、キャロラインはその場に立ち尽くしていた。
ふらふらとよろけながら、一歩二歩と後ろに下がる。

青桐由香を殺す筈だった。
取り返しのつかない事になる前に殺してしまおうと思った。
それがあの方の為になるのだと信じていた。

その筈なのにどうしてあの方は、ロザリア様は

今眼前で、本来殺す筈だった女を庇うように抱き締め、その背に深々と刃物を埋められ、止めどなく血を流しているのだろうか。

≪back | next≫
- 36 -


目次へ


よろしければ、クリックして投票にご協力ください。
 



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -