怯える子羊
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私は、人と接するのが恐い。
他人を見たり話したりする度に、私はあの時の言い知れない恐怖と嫌悪感を思い出す事になるから。

* * *
昔、まだ由香が他人と普通に接する事が出来た小学四年生の夏休み、由香が従兄の和真の家に兄と二人で、泊まりに行った時の事。

伯母夫婦は、二人を実の子供の様に可愛がってくれ、従兄の和真とその妹の可奈も、由香達兄妹を慕っていた。
だから、幼い由香は夏休みにしか会えない、遠く離れた従兄の家に泊まりに行くのを毎年楽しみにしていた。

中でも一番楽しみだったのは、子供4人だけで毎年開催される夏祭りを歩き回る事だった。

いつもは夜遅くまで子供で出歩く事は出来ないが、祭りの日だけは子供だけで遅くまで出歩いても、大人達に咎められない。

だから、毎年由香達はうんと遅くまで、祭りの会場を歩き回った。

普段都会に暮らしている由香は、夜中に町を出歩けばたちまち補導されてしまう。

だから、この祭りの日は由香にとっての天国だった。

その年も、4人はいつもと同じ様に祭りを楽しんでいたのだが、由香はいつのまにか人混みに揉まれて、兄達とはぐれてしまった。

「お兄ちゃーん!かずくん!!可奈ちゃん!どこにいるの……?」

回りを見渡して叫ぶが、小さい由香の声は、たちまち大人達の喧騒に飲まれて消えてしまう。
キョロキョロと回りを見渡しても、身長の低い由香には、大人達の黒い背中しか見えない。

「お兄ちゃん……」

由香は泣きながら、兄を呼んだ。
とぼとぼと、小さな足で人に流されながら必死に歩く。
なんであの時、はぐれないようにと、兄が握ってくれていた手を離してしまったのだろうか。
そんな思いが、由香の中に渦巻き続けていた。
歩き出して数十分、それでも兄達は見つからない。
由香は、ぼうっと歩いている内に、いつのまにか脇道にそれてしまっていた様で、気付けば回りは緑一色森の中。
田舎ならではの光景に、そして生まれて初めて一人きりで夜の暗黒に包まれた森を歩くという行為に、都会育ちの由香は、ひどく困惑した。

(どうしよう。ここの道全然わからない)

祭り囃子が聞こえるあたり、そう遠く会場から離れてしまった訳ではないのだろう。
しかし、闇所が苦手な由香にとって、この森は無限の迷宮の様に感じられた。

「どうしたの?」

その時だった。困りきって泣き出しそうになっていた由香が振り返ると、一人の青年がにこっと人当たりの良さそうな笑顔を浮かべて立っていた。
青年は、泣きそうな由香の顔を見るとしゃがみこんで、大丈夫だよと言いながら優しく由香の頭を撫でた。

「君、名前は?」

「……由香」

「そっか、由香ちゃんか。どうして、こんな所にいるの?」

青年はそっけなく答えた由香を気にする素振りをまったく見せず、終始穏和な笑顔であやすように由香を撫で続けていた。

そんな変わらない青年の態度に、いつしか由香は落ち着きを取り戻していた。

「と、友達とはぐれちゃって……。それで……探してたらここに」

「そっか。こんな脇道の森のなかで、心細かったよね。おいで、俺が一緒に探してあげるよ」

コクコクと由香が頷くと、青年は由香の小さな手を握って、ゆっくりと歩き出した。

現れた希望に、由香はほっと溜め息をついた。
これでやっと皆に会える。
皆に会ったらなんと言われるだろうか。
可奈はきっと由香姉と言いながら抱きついてくるだろう。
兄の叶夜と和真からはお叱りを受けるかもしれない。
必死に由香に説教する二人を想像していると、由香はふふっと、小さく笑みをこぼしてしまった。
由香は自分を導いてくれる青年の背中を見て、安堵のした。
しかし、それからかなり経っても、会場の灯りが見える気配は一切なかった。
それどころか、祭り囃子の音も全く聞こえなくなってしまい、森の暗さもどんどん増している気がする。

「あの、まだ着かないんですか?」

由香は不安になって、立ち止まり、青年にそう問いかけた。
しかし青年は、そんな由香を完全に無視し、強烈な有無を言わせぬ力で由香の腕を掴むと、歩くのを再開した。

「うっ……ぐっ……あっ!?」

痛さに由香が声をあげても、青年は由香を振り向く事はなかった。

おかしい。
絶対におかしい。
この人は変だ。

その時由香は、家を出る前に伯母が言っていた事を思い出してしまった。

「最近、この辺りで小さい女の子を誘拐する事件が多発してるから、気を付けてね。特に由香ちゃん、被害にあっているのは貴女ぐらいの年齢の子だから、特に注意するのよ」

そう言った伯母に、兄は由香は僕が守りますから大丈夫です、笑って言っていた。

由香も、兄がいるから大丈夫だと思っていたし、叔母の軽い忠告として受け取っていた。

しかし、今自分はもしかしてその状況のど真ん中にいるのではないだろうか。

そもそも、脇道の森の中にいる時点でこの青年は怪しかったのではないだろうか。
最初は町内会のボランティアで、迷子捜索をしている人なのだろうと思っていたが、よくよく考えると町内会の人は、その町会の法被を着ている。
だが、この青年は着ていない。
しかもグレーのパーカーにジーンズという、夏にしては暑すぎる格好。
気付いた瞬間、由香の背中に鳥肌が走った。

「嫌……だっ!離してっ!離してください!」

由香は逃げようと必死に青年の腕を振りほどこうとした。
しかし、青年は更に強い力で由香の腕を掴み、離そうとはしなかった。

ギリギリと由香の腕が悲鳴を上げる。

「ひっ……!」

おかしい、絶対おかしい。痛い痛い痛い。
腕が砕けそうな力は、明らかに人間のものではない。
そのままズルズルと引きずられる様にして、由香は強烈な力で木の幹に叩きつけられた。

「ぐっ……ぁ……」

痛い、痛い。

身体中が悲鳴を上げている。

痛みに悶えている由香を木の幹に押し付けながら、青年は先程初めて由香に会った時と同じ穏やかな笑顔を浮かべていた。

この状況で普通でいられる等、狂っている。

恐怖で声も出ない。
由香はただ壊れた玩具の様に、カタカタと滑稽に震えている事しか出来なかった。

震える由香に、男は満足げに笑ったかと思うと、そのまま思いっきり、由香の着ていた浴衣の中央を思いっきり破いた。
伯母から貰った大切な浴衣。
可愛い兎がプリントされている、ピンク色のお気に入りの浴衣は見事に破けてしまった。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
込み上げてくるのはただただ純粋な恐怖。
嫌悪感から、鋭い吐き気に襲われた。
由香は、兄の手を離してしまった事を本気で悔やんだ。
男は、由香の首筋に顔を寄せると、思い切りその牙を少女首筋に埋めた。

「あぁぁぁぁぁぁぁぁ!!?!」

あまりの痛みに悲鳴を上げた。
だが、次の瞬間あまりの出来事に、声を失った。
じゅるじゅると、なにかを飲み啜る音が、確かに由香の耳に響いた。
必死に目を男に向けると、男は噛みついた場所から由香の血を啜っていた。
ゴクリゴクリと血を飲み干す音が鼓膜に響く。
鳥肌がたち、極限の恐怖から体は全く動かない。
このまま、血を全て飲み干されて死ぬのだろうか。
いっそのこと、すぐに殺してくれれば良かったのに。
そうすれば、こんな絶望感を味合わなくてもすむのに。
由香は、あまりの精神的ショックと貧血に、意識を飛ばした。
次に目を覚ましたら、自分はきっともういないと思っていた。
しかし、由香は生きていた。
そっと重たい目を開けると、先程の男の無惨な死体があった。
死体の首と胴体は切り離されており、胴体の方はバラバラにこれでもかというほど切り刻まれていた。
内蔵も骨も、全ての臓物が気持ちの悪い腐敗臭を漂わせ、そこはまるで地獄絵図だった。

「い……いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

いっそ夢なら良かったのに。
だが、破れた浴衣と首筋の傷が、これが夢ではないと訴えかける。

それからすぐに、由香の叫びを聞き付けた大人達が駆けつけた。
そこから先は、ショックのせいかあまり覚えていない。
ただ、気が付いたら病院のベッドの上におり、兄がごめん、と必死に謝り続けていた気がする。

この日を境に、叶夜ははいつも由香の側にいる様になった。
叶夜はどこに行くにも必ず由香に付き添った。

外出には敏感になり、伯母の家に行く事も無くなった。
だから、由香にはそれから和真達がどうしているのか分からない。

分かるのは、今の由香に幻滅しているだろうという事だけ。

あの日から、由香は世の人間全てが怖くなった。
信頼できるのは、母と兄と伯母だけ。
それ以外の人間は信頼出来ない、会話する事さえ恐い。
病院の看護師や医師、教師やクラスメイトでさえも由香にとっては恐怖だった。

だから、由香はいつも兄の後ろに隠れる事にした。
叶夜も、由香を気遣って、追い払う事無く受け止めてくれた。

変わらなければならないと、自分でも分かっている。しかし、他人を見ると絶対にあの時の恐怖を思い出してしまう。
バラバラになった肉の塊と、白目を剥いた男の死に顔。
そして、ゴクリゴクリと美味しそうに血を啜る音。

あれから7年たった今でも、この忌まわしい記憶は由香の心を蝕み続けている。
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