蛇の毒白U



「蛇さん……だと?」

その名を口にした幼い少女の兄は、いぶかし気に眉をしかめる。
ベッドの上に腰掛ける赤毛の少年の膝の上にちょこんと腰掛け、彼を見上げるような形で話しかけていた少女は、突然の威圧感に肩を揺らした。
少女の怯えを察知してか、無意識に威圧感を放っていた赤毛の少年は、イヴの腹部にやんわりと回されていた腕に微力ながら力を加え、目をせわしなく泳がせながら、たどたどしく弁解の言葉を紡いでいった。

「いや……その……。別にお前に対して怒っている訳でも、威圧したい訳でもなくてだな。その……上手く言えないんだが……怖がらせたのなら、悪かった」

燃えるような赤毛を持つ、イヴよりも12も年上の兄。
彼の持つ無表情と時々発せられる威圧感は、6歳の少女からしてみれば、いささか恐ろしい時もある。
今だって、彼なりには必死に謝っているつもりなのだろうが、傍から見てみれば脅しているようにしか見えない。

「別に気にしてないわよ」

気丈な笑みを浮かべ、前に回されている男の腕に、そっと自身の手のひらを添えれば、背後からほっとしたように息を吐く音が聞こえる。
年の割にはたくましい男の胸板に背を預け、イヴはじーっと機嫌をうかがうように頭上にある兄の顔を見上げた。

「……会っちゃ駄目だった?」

「駄目ではないかもしれないが、まぁ……よろしくはないだろうな」

「そう……なの?」

「そうだ」

言うと同時に、子猫が甘えるように少年はぐっとイヴの肩に額をのせた。

「蛇はずるがしこいからな」

「ずるがしこい?」

「ああ」

だから、無闇に会うものじゃない。
そう語尾を微かに荒げ告げ、少年はどさっとイヴを抱えたままベッドの上に後ろ向きに倒れこんだ。

「うあぁあ!?」

素っ頓狂な声を上げ、勢いよく少年の胸に倒れこんだ少女に、背後から楽しそうな笑い声が響く。

「ちょっとアダム!?」

「何故だか、無性にお前をからかいたくなった」

不機嫌そうな仏頂面が、意地の悪い笑みを浮かべていた。

「な、なんなのよそれ!!」

むっと眉間に皺を寄せ、イヴはアダムの腕を引きはがしにかかった。
あっさりと外された腕に更に少女の眉間の皺が深くなる。
苛立ちを込め、男の上に跨りイヴに出来る最大限の力でアダムの胸に一発パンチをお見舞いしてみるがまったく堪えた様子がない。
むしろニコニコと上機嫌だ。

「こ、こここ……子供だからってバカにしてるでしょう!?」

むっと今度はアダムの眉間に皺が寄る。

「馬鹿になどしていない。俺はただお前を可愛がっているだけだ」

そして、真顔でそう言ってのけた。

「そ、そう言って話を誤魔化そうとしたって無駄なんだから」

強がってはいても、ほんのりと少女の頬は薔薇色に染まっている。
その事をアダムが指摘してやれば、うるさいわね、とポカポカと全く痛くも痒くもない、むしろ愛らしいだけの反撃が返ってくる。
そんな妹が、男には可愛くて可愛くて仕方のない生き物に見え、その旨を上機嫌で告げてやればますます反撃の手が強まった。

「ちょっと私は真面目に!!」

「もうこの話は終わりだ。反論は一切受け付けないからな」

どくさいしゃめー!と、覚えたての言葉でアダムを罵ってくる少女が、アダムにはとにかく可愛くて可愛くて仕方がなかった。
そんな風に、ギャーギャーと騒ぐ至極仲の良い兄妹を、窓の外から夜の闇に紛れ、盗み見る影が一つ。
白い蛇は呆れたように舌を何度か動かすと、するりと野に降り、そのまま自分を待つ男の下に帰っていった。


*  *  *

「気色悪っ」

昨日同様、偵察を頼んだ「仲間」からの報告を聞いた男の第一声はそれだった。
彼に同意を示すかのように、男の腕に巻き付き事の顛末を伝えていた白蛇は、数度頭を上下に振った。

「……あの鉄面皮が、妹……しかも12も年下……ねぇ」

男のボヤキに、先ほどと同じく、むしろそれ以上に激しく、白蛇は舌を激しく動かした。
それは益々興味深いというか、気持ち悪いというか。
なんと面倒な子供と関わってしまったものか、無視すればよかった、と男は一人木の上で頭を抱え込んだ。
同情を示してか、つんつんと白蛇が口先で男の頭をつつく。

そんな男の気持ち等知らず、足元から元気のいい声が響いてきた。

「お、降りてきなさいよ!きょ、今日こそ名前を教えてもらうんだから!」

ぴょんぴょんと必死に長い髪を揺らし、何度もジャンプしながら、男に向かって叫ぶ少女は、言うまでもなくイヴだった。
男は額に血管を浮き上がらせながら、幹に腕をかけ、体を乗り出し叫んだ。

「だから、ないものはないって言ってるだろう!!……というか、俺は帰れと言ったはずなんですがね!?」

「もうここに来るなとは言われてないわよ!!」

そう言われてみればそうだった。すっと体の芯が冷えていく感覚がした。
嘲笑うかのように、男の腕から離れ、林檎の木の上から高みの見物をしていた白蛇はピロピロと下の出し入れを繰り返している。

「いいから降りてきなさい!そっちが降りてこないなら私が行くわよ!?」

「来れるものならどうぞご自由にっ!!」

ひくひくと口角を引き攣らせ、投げやりに言い放つと、男はもう知るかと無視を決め込んだ。
目をつむり、腕と足を組み、いつものように眠ろうとする。
その間もやいやいと、少女の罵声は止むことを知らない。しばらく無視しているとしんとあたりが静まり返っていた。
やっと帰ったようだ。もう二度と来ることもないだろう。
でもまあ、一応確認はしておくかと男は瞼を開く。
と、眉間に皺を作り、歯を食いしばりながら有言実行とばかりに、男のいる木の上を目指し、必死に幹に手足を這わせ、ゆっくりとだが確実に高度を上げていくイヴの姿が目に入ってきた。

さーっと足元から血の気が引いていく感触が、男を蝕んでいく。
相手は一応、あんなのでも「人間」だ。神のお気に入り、更にはあの鉄面皮の最愛の妹ときている。
ここでもし、落ちて怪我でもされたら。
というか、普通「お嬢様」が木登りなんてすると思わないだろう。馬鹿かあの餓鬼。
あっけに取られ、目を泳がせていると、ふとイヴと目が合った。
瞬間イヴが勝気な笑みを浮かべた。
イヴが10メートルはあろう木の幹の中腹あたりにさしかかったその瞬間、一瞬時が止まった気がした。

「登って来いっていうなら登ってやろうじゃない……っ!!」

「ああもうすいません俺が悪かったです。俺は降りるので貴方も速やかに降りてください。というか降りろ糞餓鬼!!」

「はぁ!?何なのよそ――!!」

イヴの言葉が途中で途切れた。
更に上に登ろうと足を掛けた場所の枝がバキッという嫌な音を立てて折れた。
何かを言う暇もなく、バランスを崩した少女がスローモーションのように落下していく。
やばい、と思う暇もなく咄嗟に男の体は動いていた。

自身も重力に従い落下していく中、落ちていく少女に手を伸ばし、なんとか自身の腕の中に囲み込むことに成功した。
ぐるぐるとそのままの体制で地面を転がり、ようやく回転が収まった頃、男と少女は共に呆然自失の状態だった。

「……生きてますか、妄想お嬢様」

先に平静を取り戻したのは男の方だった。
自身の胸の上で体を固くし、どくんどくんとうるさいほどに心臓を激しく動かしているイヴに、ほっと溜息を吐く。

「あ……」

少女の第一声は、そんな、言葉とはいえないただの音だった。
イヴほどではないが、男の心臓も激しく脈打っている。
胸に耳を当てている形になっているイヴには、それが痛いほどに伝わっているのだろう。

青ざめていた顔が、ほっと、男の鼓動を確認した瞬間血色を取り戻していく。

「……聞いてますか、イヴ様」

「え、ええ……」

「怪我は」

「し、してない……」

そうですか。なら、とっととどけ。そして二度と来るな。

そう無慈悲に言い放とうとするのとほぼ同時にゆっくりとイヴが体を起こした。
うららかな日差しが、イヴの後ろから差し込み、男の上に少女の影を落とす。

「ご……」

見とれていなかった、といえば嘘になるだろう。

うるうると目に涙を浮かべ、くしゃりと男の上に跨ったまま彼の纏うシャツを両手で握る。
アダムならこれを、「可愛らしい」とでも評するのかもしれない。
だが、生憎男が抱いた感情は、美しいでも、可愛い、でもなく、ぞっとするほどの嗜虐心だった。

「ごめん……なさい……」

男が目を金に染めながら細めた瞬間、イヴの涙が一粒男の頬に落ちる。
瞬間、はっと、瞬きを数度繰り返し、男はイヴを押しのけて立ち上がった。

「見た通り、俺は丈夫に出来ているんです」

下を向き、地面にぺたんと座り込んだ少女に背を向け、ぱんぱんと、服に付いた汚れを腕で払い、男が再び視線を少女に戻した時には、彼の眼は元の紫色になっていた。
男はイヴの目の前にしゃがみ込んだ。

「俺は、嘘が嫌いなんです」

顔を上げたイヴはきょとんと、涙交じりの海色の瞳を間抜けに見開いていた。

「怪我をしていないのも本当ですし、名前がないのも本当です」

うっ、と申し訳なさそうに言葉に詰まり、少女は少しだけ目を伏せた。

「……本当に、ごめんなさい。その……痛かった……よね」

「人間風情と一緒にしないで頂けますか。怪我はしていないと言ったでしょう」

すごみながら告げれば、イヴはますます縮こまる。

「名前……しつこく聞いてごめんなさい」

ぼそりと、イヴが視線を逸らしながら呟く。

「分かったのなら、もう二度と近付かないでください」

男の辛辣な言葉に、ばっとイヴの下がっていた視線が上がる。
まっすぐな目をして、イヴは男の目を射抜いた。
もう、涙を浮かべてはいなかった。

「ね、ねぇ!」

じっと、男は少女の言葉を待った。

「ヘビさんには、どうして名前がないの……?」

そんな事を言われたのは初めてだな。
目を見開いたかと思えば、男は一瞬素に戻ったのか、そんな事を困ったように呟いた。

「……ないものはないですし、そもそも、俺を名前で呼ぶ必要はないでしょう」

「名前で呼ぶ必要がない……」

「お前とか、おい、で別に事足りますし。名前なんて必要ありません。今後とも、そんな名前を呼ばれるような仲の生き物を作る気もありません」

すっと立ち上がり、男はイヴに背を向ける。

「もう分かったでしょう。俺は面白みなんて全くない男なんです。……分かったならとっとと帰れ」

語調を荒げた男に、イヴの肩が揺れる。

「私は……!!」

突然の少女の言葉に、男は思わず歩みを止めていた。
振り返った先で、少女は立ち上がり、胸に手を当て、必死の形相で男を睨み付けていた。

「私は……貴方を名前で呼びたいと思うわ!」

ざぁぁぁと、強い風が吹き林檎の木を強く揺らす。
草原の草が波打ち、同時にイヴの長い髪を波打たせていた。

「何度も言いますが、名前なんて、さして重要なものでもないでしょう」

「じゅう……よう……」

「……大切という意味です」

「大切よ!名前は重要!重要よ!!」

決して譲ろうとしないイヴに、蛇は呆れ顔で溜息を吐く。

「……好きにすればいいんじゃないの?」

しばしの沈黙の後、イヴが口を開いた。

「れぼると」

「は?」

「だから……レボルトよ!貴方の名前はレボルト……!!」

その「名」を聞いた瞬間、「レボルト」の頭の中で、ガシャンと錠を絞められたような感覚がした。
逃れようのない強い力で、枷で、イヴに魂を根幹から縛り付けられたような感覚。
恐怖に目を見開き、イヴの顔を正面から見れば、彼女はしてやったりという顔をしていた。

この餓鬼、まさか、名付けの意味を分かっていてやったんじゃないだろうな。

そんな言葉が脳裏を過るが、イヴはきょとんと忌々し気に眉をひそめるレボルトに首をかしげるだけで、それ以上は何もしようとしない。
無自覚でやっているなら、尚性質が悪い。
見えない力で締め付けられ、上がる息を必死に抑え、服の上から心臓を抑える。

今この瞬間、確かに「契約」は成された。

「……反逆とは、これまた酷い名前をどうも」

必死に飄々とした笑顔を浮かべ、軽口を口にすれば彼女は

「ヘビさんが好きにすればいいって言ったんだから、撤回はしないわ」

と、胸を張って満足気な様子だった。
本当に、なんでよりにもよってこんな、面倒なちんちくりんの「所有品」にされてしまったんだ。
悪態を吐けば吐くほど、逆らうなと言わんばかりにのしかかる圧力が強くなる。
生憎、そう言ってやる気力は残っていなかった。

「はいはい、感謝しますよ。小さなお姫様」

そんな風に煽ってやるのが精一杯の反抗だ。

「小さくない!」

「その台詞は、あと30センチは伸びてから言ったらいいんじゃない?」

「レボルトなんかだいっきらい!」

名前を呼ばれる度、少なくとも不快、とは形容できない、得も知れぬ感覚がレボルトの体の芯から湧き出てくる。
不快どころか、むしろこれは。

「はいはい、じゃあもう来ないでね」

イヴがどんな反応を返すか分かっていて、拒絶の言葉を吐き出す。
その頃には、体も課せられた重みに慣れ、軽口を平気で口に出来るようになっていた。

「行く」

「……だからなんでそういう」

「レボルトが……レボルトがイヴの事好きになってくれるまで通うもん!!」

通うもんって。通うもんってなんだそれは。
躍起になりすぎて言葉が退化しているイヴを遠い目で見る。

「絶対に好きになってもらうんだから!」

彼女がそう言うのなら、レボルトに抗う術など微塵もない。

「いいよ」

今日、この瞬間

「満足するまで来るといい」

どうせすぐに飽きる。
それまでとことん付き合ってやる。

幼い少女の「所有物」となった一匹の蛇は、にぃっと口の端を釣り上げ、鼻で笑いながら、彼女の頭をくしゃりと撫で上げた。


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