不思議なものだ。制服であろうと私服であろうと今の時期はいつも汗が滲み出てきたというのに、浴衣を纏っただけでこんなにも涼しく感じるなんて。鏡の前に立ち、くるりと回って不備がないか最終チェック。せっかくの浴衣デートで残念な姿を彼に見せたくなんかない。だから今日は一段と張り切ってみた。メイクも浴衣に映えるようなものに挑戦してみたし帯の結び方もちょっと複雑で綺麗に見えるものにしてみた。あとは髪を緩やかに巻いた後アップにして彼がいつだったか私に似合いそうだからと贈ってくれた髪飾りで纏めてみた。我ながら完璧である。彼は褒めてくれるだろうかと心躍らせながら私は最小限の荷物を淡い水色の巾着に詰め込み、それから下駄に指先を通す。いってきます、気合を入れるように玄関口で言い放ちそれから扉を押した。外はもう日が落ちていて、昼間より幾分か涼しい夜風が優しく吹いている。カランコロンと下駄を鳴らしながら風を肌で感じ、あらためて夏が来たのだなと思った。ついこないだの春とは違う感触の風、夏の風。私は夏の夜風が一番好きだ。だって、黒子君に似ている気がして。

待ち合わせ場所に約束の時間の十分前に着いたのに、彼はもうそこにいた。いつだって彼はそうだ。私を待たせてなんかくれない。今までのデートだって私が彼より先に着いたことはない。なんでこんなに早く来るのか尋ねてみたことがある。彼はきょとんとした顔で彼女を待たせるなんて彼氏失格じゃないですか、と言っていたっけ。さも当たり前かのように言い放つもんだから私は思わず笑ってしまった。私は黒子君のそんなところが大好きだ。そして彼は後からやってきた私が遅くなってごめんねと言うと必ずムスッとして不機嫌になってしまうのだ。僕が勝手に待っているだけなので君が謝る必要なんて何処にもない、と。私はそのときの黒子君の顔が密かにものすごく可愛いとか思ってたりする。きっと彼に言ったら怒られてしまいそうだ。

はぐれない様に指先を絡ませ、私たちは屋台を見歩いた。驚くほど人がいて騒がしいはずなのに、黒子君と手を繋いでいるせいか私たち二人だけ隔離された空間にいるように感じた。私より一回り大きい手のひらにドキドキする。暖かくて優しい手。いつも私を気遣ってくれる手。ほら、今だって小石に躓いた私を支えてくれた。ごめんね、と言えば彼は転ばなくて良かったですと微笑んだ。一通り美味しそうなものを購入して食べつくしたあと、彼に引っ張られ人ごみから抜け出した。急にどうしたの?とりんご飴にかぶり付きながら尋ねれば、もうすぐ花火が始まるので川原のほうに行きましょうと言った。そう言ったあと、私のほうを見ながら彼は小さく笑いを零した。たくさん食べましたね、と。恥ずかしさで顔が暑くなる。せっかくの黒子君とのデートで食い意地はってどうするんだ。恥ずかしくて顔を上げられなかったが、りんご飴を口から離すことも出来なかった。だって、美味しいんだもん。それから私たちはまた歩き出した。先ほどの屋台周辺と違ってこの辺は驚くほど静か。虫の声が綺麗に聞こえるなあと思っているとドォン、ドォン、と花火の音が響いてきた。見てください、と黒子君が指差したほうを見れば光の粒子が空高く輝いていた。思わず息を呑む。次々と上がっては散っていくそれらをしばらく見つめていれば、黒子君がこちらを凝視していることに気がついた。どうしたの、と首を傾げて聞いた。


「綺麗ですね」
「うん、すごく花火綺麗だね。来てよかった」
「…君が、なんですけど」


思考回路が一瞬停止して、その後頭がフル回転して黒子君が言った言葉を理解しようとする。彼が褒めてくれたのだと理解したときには力の抜けた指先からりんご飴がすっぽ抜けていく。しまった、と我に返ったときには黒子君がうまいことキャッチしてくれていた。ご、ごめんね、ありがとう、と言ってりんご飴を受け取ろうとしたら、黒子君は何やら考え込んだあと、つい先ほどまで私がかぶりついていたそのりんご飴に噛み付いた。薄い飴が割れる音とりんごを歯が削り取る音。それらを咀嚼してりんご飴を私に手渡した後、甘いですね、と彼は当たり前のことを言い放った。そりゃりんご飴だもの。


「でも美味しいです」
「でしょ?私大好きなのりんご飴」


もう一口食べる?と今度は私がりんご飴にかぶり付きながら尋ねた。遠慮なく頂くとします、と彼が言ったものだからりんご飴を差し出そうとすれば、彼の指先はりんご飴ではなくなぜだか私の手首を捕らえた。クエスチョンマークを頭に浮かべる暇もなく腕を引かれて黒子君に口付けされた。ちょっと待って、そう言おうと唇を開けてしまった。その瞬間を彼が逃すはずもなく。ずるりと彼の舌は私の口内に侵入した。絡められるお互いの舌にはかすかなりんご飴のフレーバーが。なんという甘い口付けか。口端から漏れていく上ずった声も気にならないほど、彼の口付けは甘くて幸せだった。唇が離れて瞳をゆっくりと開ければ黒子君は微笑んでいた。飛び切り美味しかったです、と言って。私は恥ずかしくてそれを隠すようにまたりんご飴に口付ける。ああだめだ、この味のせいで先ほどのキスを思い出してしまって、どうしようもない。そんな私にトドメを刺すかのように彼は耳元で囁いた。


「これでもっと好きになったでしょう?りんご飴」