突然重なった唇は偶然ではなく確かな意図を以ってのものであることを、掴まれた肩の痛みがわたしに教えていた。折原くんにキスをされた。それはあまりに突然だった。
小さい頃に見たお話では、お姫様は王子様のキスによって永遠の眠りから目覚めていた。だからわたしは幼心に、キスというのは誰かを愛する気持ちを込めた奇跡すら起こせる特別なもののように思えたのだ。いや、さすがにこの年になってもそんな夢見がちなことを考えていたわけではない。でも、見開いた目に映った折原くんの瞳はまるで憎悪を煮え滾らせるみたいにきつくきつくわたしを射止めていたものだから、やっぱりわたしの想像していたキスとは何もかもが違っていた。そして、その眼差しに底知れない恐怖を感じたのをよく覚えている。またね、と部屋を出て行った彼の声が耳鳴りのように離れなかったことも。

「……ハァ」

吐いたため息は思いのほか重苦しくて、余計に気分を沈めてしまいそうだ。何か気を紛らわせよう、と窓の外を見る。そしたら窓辺に置いてある花瓶に目がいった。飾られている白と黄色の小ぶりな花は先日お見舞いにと貰ったものだ。

「ありがとう、すごく嬉しい」。そう言ったのは紛れもない本心だった。病室に入るなり小さな花束を渡してきたシズちゃんの姿はこっちまで恥ずかしくなるくらいに照れ臭そうで、花屋なんて柄にもない場所へわたしのために足を向けてくれたのだと思うと本当に嬉しかった。なのに──今思えばわたしは自分が上手く笑えているか、そればかり気にしていたように思う。

「やあ、調子はどうかな」

聞こえた声に思わず身体が強張るのがわかった。聞き違えか。いや、そんなはずない。だってその声は、先日からずっとわたしの頭の中にこびりついて離れないものと同じ声だったから。

「……何の用ですか」

振り向くと、予想通りの人物が病室の入り口で壁に背を預けていた。その人物──折原くんはわたしの顔を見るなりニコリとさながら好青年のように微笑んだ。真っ白い病室の中、その黒い学生服はどこか異物のようだ。ぞくりと背中に嫌な感覚が走る。

「お見舞いだよ。またねって言ったじゃない」

「どうしてここ、知ってるの」

わたし、入院先の病院教えてないのに。そう思ってすぐに気付く。そもそもわたしを岸谷くんの家まで運ぶよう手配してくれたのは折原くんなのだから、彼が岸谷くんにわたしの入院先を聞けば簡単に教えてもらえるだろう。「どうしてって、新羅に君のこと聞いたら入院したって言うからさ。教えてもらっただけだよ」と思った通りの答えが折原くんから返ってくる。それなのに得体の知れない不安が背を這うのはなぜなのか。

「あれ、顔色がよくないね。大丈夫かい」

「……別に、大丈夫」

折原くんについての悪い噂を聞いたことがないわけではなかった。学校の裏で賭け事を主催しているだとか、中学の頃に同級生を刺しただとか、挙げ句の果てには裏世界の人たちと繋がっているだとか。そんな話を何度か聞いたことがある。けれどでっちあげのような現実味のないものが大半だったし、噂は噂だろうと。彼と直接関わったこともないわたしがそれをそのまま鵜呑みにすることはしたくなかった。それに事実、あの時わたしは折原くんに助けられた。……でもそれも、何か思惑があってのことだったんだろうか。かけられる心配の声が、今はこのうえなく空々しい。

「空気でも入れ替えようか。締め切っちゃうと身体によくないよ」

俯けていた視線を彼の方に向けるけれど、薄く笑うその瞳に真意は何ひとつ見えなくて不信感が増すだけだった。開いた窓から入ってきた風が、白いカーテンを揺らす。それと同時に、窓辺に置かれた花が甘い匂いを薫らせた。

「へえ、花か。いったい誰に貰ったのかな」

折原くんの吐く言葉は妙に含みを持たせるようなものばかりだ。だから勘繰ってしまう。見透かされているんじゃないかと。この花を贈ってくれた相手も、わたしが思っていることも、全部。

「……誰でもいいでしょ」

「はは、冷たいなあ」

口ではそう言いつつもたいして気にした様子はなく、花瓶に近付いた折原くんは値踏みするようにじいっと花を眺める。そしてその細い指が伸ばされたかと思うと、花びらを一枚千切った。

「っ……何するの!」

「馬鹿げてるなって思ってさ」

「なに、が」

「そのままの意味だよ。化け物が人間の真似事なんて馬鹿げてるって」

化け物。その言葉は間違いなくシズちゃんを差すもので、ああ、やっぱりわかっていたんじゃない。その花をくれたのが誰か。わかったうえで、わたしに聞いてきた。それって、どういうこと。

「シズちゃんのこと、そんな風に言わないで」

「どうして?あいつが化け物なのは事実じゃないか。……ああ、やっぱり好きな人を悪く言われるのは気分がよくないのかな。でもさ、よく考えてみなよ。君にあいつを好きでいる資格なんてあるのかい」

「……どういう意味」

「忘れたわけじゃないよね?この前のこと」

忘れられるわけがない。だからわたしは、その花をくれたシズちゃんの気持ちを素直に喜ぶことができなかった。馬鹿みたいだって自分でもわかっている。キスなんてただ唇と唇が触れるだけだ。特別なことなんて何もない。そんなのはわかってる。わかってるのに。

「君は俺とキスをした。理由はどうあれその事実は変わらない。気持ちなんてどうでもいいんだよ。君が俺とキスをした事実さえあれば十分だ」

わからない。どうしてあんなことをしたのかも、何を考えているのかも、彼の言葉の意味も。それなのに、折原くんの言葉は触れられたくない部分を的確に探るみたいにわたしの中に踏み込んでくる。やめてよ、そんなの知らない。知らない。わからない。

「君はあいつの大嫌いな俺に触れた口であいつの名前を呼んでいるんだよ。好きだとか愛してるだとかそんなことをさ、俺を受け入れた唇であいつに紡ぐんだ。これからずっとね」

いつかのように折原くんの瞳が間近に迫るけど、痛む身体に拒む術はない。せめてもの抵抗にきつく瞳を閉じれば、シズちゃんのくれた花の香りが一層強く鼻を掠めてどうしようもなく泣きたくなった。