ああ、反吐が出る。
扉の向こうから聞こえた声に、俺は嘲笑すら溢せず心中で唾を吐き捨てた。




「相思相愛、ってやつかな」

あいつが飛び出していった後、ベランダから顔を見せた新羅が微笑ましげに呟いた言葉は、いつも難解な単語を口に出す新羅から発せられたにしてはやけにポピュラーな言葉だった。あいつが飛び出していった理由は、おおよそ彼女が目を覚ましたとかそんなところだろう。必死になっちゃって、無様なことこのうえない。ソファに腰かけた新羅に「みょうじさん、もう大丈夫なの?」と聞けば「うん。身体は痛むようだけど意識ははっきりしているし、問題ないと思うよ」と予想通りの答えが返ってきた。ふうん、とさして興味なさげに相槌を打ちながら、思考を巡らせる。

俺の言葉に苦虫を噛みしめるような、怒りを堪えるような表情をしたあいつの苛立ちは、明らかにいつもの俺に向けられているものとは違っていた。そう、あの平和島静雄が俺にではなく自分に苛立っていたのだ。こんな事は今までになかったことだ。
ああ、そうか。そこまでのものが、みょうじなまえにはあるのか。浮かび上がる笑みを隠しきれずに、俺の口元はゆるりと弧を描いた。面白い。面白いよ。みょうじ、なまえ。俺は君を利用して、今度こそ平和島静雄を殺すことが出来るんじゃないだろうか。

「臨也?どこに行くんだい」

「嫌だな、野暮なこと聞かないでよ。トイレだよ、トイレ」

「……そう。それならいいんだけど」

それならいい。そう言いながらも、唐突に席を立った俺に新羅の顔は訝しげなままだった。そんなに怪しまないでよ、傷付くなあ。なんてまあ、こんな言葉で誤魔化されてくれるとも思ってはいないが。勿論、俺は用を足しに行くわけなどではない。リビングを出た俺の足が向かったのは彼女の病室だ。そしてその扉の前、気配を隠して耳を澄ませていた俺に聞こえたのは先程の言葉だった。

────手、握ってもいいか?

つい数時間前、我を忘れ獣のように暴れていた男だとは思えないほど優しく、そして臆するような弱さが秘められた声。それがやけに人間染みていたものだから、腹の底から嫌悪感と苛立ちが沸々と湧き上がるのがわかった。おいおい、ふざけるなよ。化け物ごときが人間の真似事なんて。

そうだ。そうだそうだそうだ。壊してやろう。お前自身も、みょうじなまえとの関係も、お前に分不相応なものを、全部。外側から殺せないのならば、内側から殺してしまえばいい。なに、一端の女の子に恐怖を植え付けるのなんて簡単なことだ。

「こわくないよ、シズちゃん。ねえ……っと」

扉が開く気配に気付き、物陰に身を潜める。危ない危ない。しかし幸運なことにいつもならば臭いだとかなんとか失礼な事を言って異常なまでに俺の居所を察知するあいつが俺に気付くことはなかった。みょうじなまえに受け入れられたことで浮かれてでもいるのだろうか。何にせよ、こちらにとっては都合がいい。
姿が見えなくなったことを確認して、病室に近付く。扉をノックすれば、はっ はい!と驚いた返事が扉越しに聞こえた。

「あっ……折原くん」

「どうも。具合はどうかな?」

「うん、大丈夫」

折原くんが助けてくれたおかげだよ、と。疑うことを知らないような笑顔が俺に向けられる。そういえば、この子は俺のことを何とも思っていないのだろうか。平和島静雄の幼馴染みということは俺が普段あいつに何をしているか知っているはずなのに。いや、知っているといっても嫌い合っているといった程度のことしか認識していないのかもしれない。俺も危ない橋を渡るのは避けたいから基本的には他校の生徒などに発破を掛けあいつに危害を加えているし、それにあいつが俺の話題を自ら口に出すとも思えない。そう考えるとこの子の俺への態度にも納得がいった。……そうか、この子は何も知らないのか。

「折原くん?」

黙り込んだ俺を不思議に思ったのか、みょうじさんは疑問符を浮かべながら首を傾げる。その仕草はあまりにも無防備だ。
気に入らない。気に入らないなあ。この子にはもっと、違った──ああ、そうだ。プランを変更しよう。

「どうしたの?何か……っ!?」

ぐっと、力を込めて彼女の肩を掴む。すると先程までとても柔らかかったその表情が途端に痛みに歪んだ。彼女に平和島静雄への恐怖を植え付ける。それも面白い。けれどそれよりも。この穢れを知らないような彼女の表情を、あいつへの罪悪感で染め上げるというのはもっと面白いのではないだろうか。

「痛、っ」

「みょうじさん……いいや、なまえちゃんはさ、シズちゃんのことが好きなんだろう?」

「っ、な……」

「恐ろしいと思わないのかい?あいつのこと」

「っ……今の折原くんの方が、ずっと怖いよ……何で、っこんなこと」

「どうしてこんなことするか?そうだなあ」

肩を掴んでいない方の手で彼女の顎を掬う。びくりと、その華奢な身体が震えるのがわかった。不意に彼女の頬に落ちていた睫毛の影が、消える。俺が唇を重ねたことによって。

「こういうことしたら、君はどんな顔をするのかなって」

怯えに翳る瞳が、じわりと涙で滲んだ。いいねえ、うん、そうだ。こっちの顔の方が、君にはよく似合う。