彼女、君のこと気にしてたよ。行ってあげたらどうかな。

新羅の言葉に、俺は考える間もなくその場を飛び出していた。ばたばたと足音をたてて一目散に廊下を進む。早鐘を打つのは足元ばかりでなく、心臓はうるさいくらいにどくどくと高鳴っていた。その高鳴りが何から所以したものなのかは考える余裕もない。早足のまま握ったドアノブを勢いに任せて開けば、ひゃっ、と驚くような小さな声が聞こえた。ぱちくりと瞬いた丸い瞳と、目が合う。

「……シズちゃん?」

僅かに続いた沈黙を破ったのはなまえからだった。はっとして、開いていたままの扉を静かに閉める。ガチャン、と響いた音に背を押されるように、口を開いた。

「新羅に、起きたって聞いてよ。その……」

続く言葉が、喉に詰まる。それもそうだ。この怪我を負わせたのは誰でもない俺自身なのだから。ベッドで半身を起こすなまえの傍に寄れば足にはギプスが、腕には包帯が巻かれていて、改めてこいつを傷付けてしまったという実感が重くのしかかるようだった。

「……身体、痛むか?」

「あ、うん、ちょっとね」

「嘘つけ。ちょっとなわけねえだろ」

「あはは、バレたか。……左足がね、折れちゃってるんだって。他にも色々ひびが入ってるって」

しばらく学校行けそうにないかなあ。そう溢すなまえの笑みは身体が痛むのか少しぎこちなく、申し訳なさやら情けなさやら、たくさんの気持ちが胸を苛んだ。

「……ごめん」

小さく吐いた言葉は静かな室内にやけに響いた。病院でもないのに白で統一されたこの部屋は、静寂が誇張されるようだ。なまえはどんな表情をしているのだろう。それを確かめることが躊躇われて、伏せた目でその腕をなぞるように辿った。俺よりもずっとずっと小さな手が、白いシーツをきゅっと握る。

「シズちゃんは、わたしに触れるのが怖い?」

溢された声は静けさに溶けきることなく俺の鼓膜を震わせる。しんしんと流れる時間に、息を飲む音すら聞こえてしまいそうだ、なんて思った。握りしめた手のひらにグッと爪が食い込む。俺の声は、震えていないだろうか。

「怖くねえって言うと、嘘になる」

そう、ずっと、あの時から。なまえに触れることが怖かった。この手が意図せずともなまえのことを傷付けてしまうのではないかと、この腕に簡単に収まってしまいそうなその身体を壊してしまうのではないかと、いつも不安でたまらなかった。そして事実、俺はこいつを傷付けた。今回は骨が折れる程度で済んだかもしれない。けれど、次は──いや、骨が折れただけでも大事じゃねえか。いつかまた、俺は今日みたいにこいつを傷付けて、そして、最後には壊してしまうんじゃないだろうか。

「なあなまえ、俺は、」

俺は、お前の傍に居ていいような人間じゃない。喉までせりあがったその言葉を腹の底に沈めるのは、それでもなまえの傍に居たいという気持ちだった。傷付けてしまうと恐れながら、それでも傍に居たいと願ってしまう。そんな自分が、酷く情けない。

「……どうして俺の力は、自分を傷付けねえで、他人ばっかり傷付けちまうんだろうな」

嘆くように自分の口から出た言葉があまりにも弱々しくて、笑えてしまう。いっそのこと、俺はこの力で自分自身を壊してしまえばいいのだろうか。いやそれでも、力に比例するように丈夫になっていくこの身体は自分の力にすら耐えちまうんだろう。ああ、理不尽だ。爪を立てた手のひらが痛まないことも。強く噛んだ下唇に血が滲まないことも。それらがどうしようもなく、俺は"普通じゃない"という事実を突き付けてくる。こいつが受けた痛みすら、俺には理解することができないのだと。自分が与えた痛みすら、理解させはしないのだと。

「そんなこと、ない」

咄嗟に顔をあげると、さっきまで消え入りそうに小さかったなまえの声が、視線が、真っ直ぐに俺へと向けられていた。

「確かに、体は傷付いてないかもしれない。でも、身体に降りかかるものだけが傷付くってことじゃないでしょう。シズちゃんはいつも力を奮うたびつらそうな顔してる。今日だって今にも壊れちゃいそうなくらい、つらそうな顔してた。……だからわたしは、止めようとしたんだよ」

今にも泣きそうな顔をしているくせに、それでも迷いなく俺を見つめる瞳に不意に思う。ああ、こいつは強いな。と。きっと俺はこいつのこういう所に、いつの間にか惹かれてたんだろう。

「わたしもね、本当は、怖くないわけじゃなかったんだよ」

視線を落としたなまえは、張り詰めた表情を緩め言葉を続ける。

「小さい頃から、ううん、きっと今までずっと。シズちゃんの力のこと怖かったんだと思う。今日、シズちゃんのことを止めたあの時だって、すごく怖かった。怖くて怖くて歯なんてガタガタ震えちゃって、声も上擦って。でもね、それでもシズちゃんのこと離したくなかった。止めたかった。だってわたしは、自分が傷付くこと以上に、シズちゃんが傷付いてしまうことが怖い。シズちゃんがわたしの手の届かないところにいってしまうみたいで、ずっとずっと怖い。そう、気付いたから」

だから、今ならちゃんと言えるよ。そう言って、なまえの手のひらが俺の手にそっと重ねられる。びくりと体を強張らせた俺に、痛みを堪えながら微笑んだなまえは宥めるように、口を開く。

「こわくないよ、シズちゃん」

ずっと、この言葉を信じたかった。
もう一度、この言葉を聞きたかった。
なあ、情けねえもんだよな。俺は、その言葉を聞いたあの時からずっと、お前に救われたかったんだ。

「なあ、なまえ」

触れたいと、思った。傷付けることを、傷付くことを、恐れぬようになりたいと思った。もう、自分の気持ちから逃げたくないと。────今なら、あの時とは違う言葉を返せるはずだ。

「……手、握ってもいいか?」

目を見開いたなまえが泣きそうな顔で笑って、頷く。久しぶりに触れたその体温はあの頃と変わらずあたたかくて、そして、愛しいと感じた。