「シズちゃんさあ」

通されたリビングには、既に先客がいた。ソファにもたれかかりながら天井を仰いだ臨也が、明らかな侮蔑を露に乾いた笑いを漏らす。ああ、玄関で俺を迎えたセルティが一瞬躊躇いを見せたのはこのせいか。

自分の足が無意識に新羅宅に向かっていることに気付いたのは、あの公園を通りすぎた時だった。不意に、足を止めた。行ったところで、俺はなまえにどんな顔で会えばいいんだ。俺が、怖くないのか。あの頃、ここでそう問うた俺は、何を思っていたのだったか。拒絶されることが怖かった。恐ろしいと、近付かないでと、そう言われることが何より怖くて────でも、そうだ、きっと心のどこかで期待していた。

「この期に及んで、何のこのこやって来てるのさ」

虫酸の走る声が神経を逆撫でするように鼓膜を揺らす。けれど殴る気さえ起こせなかったのは、核心を突かれていたからか。そんな自分に思わず面を食らった。ああ、そうだ。この期に及んで、あいつをあんな風に傷付けておいて、どうして俺はここに足を向けているんだ。

「はは、ひっどい顔」

くるりとこちらを振り返った臨也が俺の顔を見るや否や、不愉快そうに吐き捨てる。覚えたのは臨也へではなく、自分への苛立ちだ。ギリッ、と。行き場のない怒りに歯が軋みをあげた。

「……ベランダ借りるぞ」

これ以上苛立ちが募って暴れでもしてしまったら元も子もないと、セルティに断りをいれベランダへと踵を移す。ここなら臨也が視界に入ることもないだろう。高層マンションの最上階だけあり、ここのベランダは風通しが良い。柵に身体を預け軽く身を乗り出すと、緩やかに吹いた風が髪を揺らした。

立ち尽くすことしか出来ない自分を誰より恨んだのは、間違いなく俺だった。なまえに駆け寄ってあいつを助け起こしてやるべきなのも、きっと俺のはずだった。それなのに俺の足はその場に縫い付けられたように動かなくて、臨也が呼んだセルティがなまえを運んでいくのをどこか遠い出来事のように感じていた。感じていたというよりも、そう思いたかったというのが正しいだろう。
俺は、何を間違ったんだ。あいつが俺の傍に居てくれる。それをいいことに、触れさえしなければ大丈夫だなんて。思い違いにも程がある。いや、何が間違いだったかなんて今となっては関係ない。俺は、あいつから離れるべきなんじゃないか。そもそもなまえのことを考えるなら中学の時にでもきちんと突き放していればよかった。怖くない、なんて。ガキの頃にもらった言葉ひとつにどれだけ甘えていたんだ。
無音で走っていくバイクの背は俺にまざまざと教えるようだった。また大切なものを傷付けてしまった、と。結局あの頃から何ひとつ変われていない。現に今だって、俺はきっとあいつの言葉を待っている。この期に及んで、期待しているんだ。

俺は、なまえが好きだ。たぶん、なんかじゃねえ。なまえなら俺を受け入れてくれるかもしれない、なんて、そんな希望に縋ってしまいたくなるくらい、俺はあいつのことが好きなんだ。

「あー、畜生」

慣れない思考に沈みこむ頭をわしゃわしゃと掻く。元々、考え込むことはあまり得意ではない。

「静雄くん、ちょっといいかい?」

しばらくすると、コンコンと硝子戸をノックする音が聞こえた。目をやれば窓の向こうには新羅の姿がある。そもそもここは新羅の家なのだから了承をとるというのもおかしな話だ。おう、と返事をすれば、戸を開けた新羅は俺の隣に並び柵に背を預けるようにしてこちらを見やった。

「リビングに居ないから驚いたよ。またどうしてベランダなんかに?」

「別に、何でもいいだろ」

「おおよそ臨也を視界に入れないように、とかそんなところかな。考えるより先に手が出る君にしては冷静な判断だね」

「はっ、わかってるんじゃねえか」

「ははっ。君たちが半径数メートル以内に居てなおかつお互いを認識しているのに争いが起こらないなんて、なんとも奇奇怪怪な光景だよ」

これは雪どころか槍が降るかな。からかうように新羅が笑う。が、それは俺の顔を見てすぐに苦笑に変えられた。今の俺は、新羅の目から見ても酷い顔をしているのだろうか。

「ねえ静雄くん。後悔してる?」

「してねえように見えるか」

「いいや、正直こんなに弱った君の顔を見ることになるとは思わなかったよ。吃驚仰天だ」

声色とは裏腹に新羅の表情は至って真面目だ。何とも言えなくなり、そうか、とだけ返す。ヒュウと吹いた風にかき消されてしまいそうなくらい小さな声だった。こいつが病室から出てきたということは、もうなまえの容体は落ち着いたのだろうか。なまえは、大丈夫そうか。そう聞こうとしたのだが、それは突然話題を切り替えるように発せられた新羅の声に阻まれてしまった。

「あっそうそう、それで本題なんだけどさ」

「あ?本題って……」

「うん。みょうじさんなんだけど、ついさっき起きてね──」

続く言葉よりも先に、俺はベランダを飛び出していた。新羅が笑いながら何かを呟くのが聞こえるが、何を言ったのかは聞き取れない。今は何より、あいつに会うことが先決だった。