俺はたぶん、なまえのことが好きなんだと思う。

「シズちゃん」。あいつが呼ぶこの呼び名は、俺にとって特別なものだった。幽が呼ぶ「兄さん」とも同級生が呼ぶ「平和島くん」や「静雄くん」といった呼び方とも違う、あいつだけが呼ぶ特別な名前。小さい頃の俺は、この呼び名があまり好きではなかった。だって、女みたいじゃねえか。ちゃん付けなんて。でもいくらそう言ってもなまえは構わずシズちゃん、シズちゃんと俺を呼んだ。無視をしてあいつの悲しそうな顔を見る勇気も持ち合わせていなかったものだから毎度渋々返事をしていたら、いつの間にかそれが当たり前になっていった。そして、好いていなかったその呼び名は俺の日常に溶け込み、今では特別なものになったのだ。特別なんだ。あいつも、この呼び名も。だから、だからこそ。

「いいぃいいざあああぁああやあぁああァアア!」

この男がそれを口にするのが、何より腹立たしかった。

「ほんっと……シズちゃんって学習能力ないよ、ね!」

俺の投げた机を軽々と避けた臨也はヒョイ、と教室の窓から身を乗り出す。シズちゃん、シズちゃん、シズちゃん。耳障りな声が発したその言葉はまた俺の神経を刺激した。呼ぶな。その名前で呼ぶんじゃねえ。こいつがそれを口にするだけで、俺の今までのあいつとの思い出とか、よくわからないけれど大事なものを踏み躙られるような感覚がするのだ。そしてその度に沸き立つ自分の怒りが、あの時なまえが言ってくれた「こわくない」を打ち消していくようで────。

俺は信じたかった。あの言葉を。いや、信じようとしたはずなんだ。それでもどうしても怖かった。あの時の俺は、酷く安易な行動で大切だと思ったものを守るどころか傷付けてしまった。なまえが俺に触れるたび脳裏にちらつくのだ。暴れ疲れて正気になった目に映った、崩れた残骸の下敷きになる守りたかったはずの人の姿が。これはきっと俺があいつを大切に思っていて、だからこそ生まれる感情なんだろう。皮肉なもんだ。大切になればなるほど、近付くことに臆病になる。

「うおぉおおおらああァア!」

手近にあった物を思いきり振りかぶって投げれば、ガシャン!とそれが砂埃をあげて地面にめり込む。ああ、またこうやって俺は人間から離れていく。
近頃の俺は、以前にも増して力に上限がなくなっているようだった。前までなら持ち上げはできても骨の一本や二本折れていたはずの重い物でさえ、怒りに任せてしまえば簡単に投げることができる。それもこれも、全部臨也のせいだ。こいつに出会ってからというもの、俺のキレる回数は格段に多くなった。その度にこの人間離れした力はどんどん膨れあがっていく。これじゃあまるで本当にこいつの言う通り、化け物みてえじゃねえか。

「っと!危ないなあ。こんなものまで投げるなんて、本っ当に化け物だよね。シズちゃんって」

嘲るような笑い声が耳に障る。呼ぶな。呼ぶんじゃねえ。その声で、その呼び方で、そんな風に俺を呼ぶんじゃねえ。

「……うるせえ、黙れ」

「あれ何、急に大人しくなっちゃって……ひょっとして傷付いちゃった?化け物って言われて?なにそれ、今さらすぎない?」

「黙れ!いいから、俺の前からとっとと消えやがれ!」

「怖いなあ。いいよ、わかんないっていうなら何度でも言ってやるよ」

「うるせえ!黙れ!」

臨也の唇が弧を描きながら開かれる。言うな。言うんじゃねえ。

「お前は」

言うな。言うな。言うな。言うな。言うな。言うな。

「シズちゃんは、化け物なんだよ!」

ブチリ、と。血管が切れるような、箍が外れるような音が聞こえた。衝動と言えるものだけに任せて、俺は奴の名前を叫ぶ。獣の呻きと形容するのが相応しいような声だった。殺す殺す殺す。その言葉で頭の中が書き殴られるように埋まっていく。ああ、もうきっと、俺は────

「シズちゃん!おねがい、やめて!シズちゃん!」

ああ、うるせえ、うるせえうるせえうるせえ!離せ!殺す。殺す殺す殺す殺す。

「シズちゃん!ねえ、シズちゃ──」

腕に縋る感覚を振り払う。やめてくれ。そんな風に俺の名前を、呼ばないでくれ。勘違いしそうになる。大丈夫なんだと。俺は、あいつに触れてもいいんだと。また俺は大切なものを失くしてしまう。だから、その声で、俺を、俺のことを────

「っみょうじさん!」

「──!」

耳障りな声がどこか焦るように聞き覚えのある名前を口にするのを感じて、意識と視界が鮮明になっていく。おい、どうしてだ。どういうことだ。どうして、こいつが。

「……なまえ……?」

違う、わかっている。それでも脳はそれを認識することを恐ろしく拒んでいた。振り払った腕の先、倒れているなまえに、いつかの姿が重なる。俺はまた、あの日のように立ち尽くすことしかできない。