いつからだっただろうか。シズちゃんがわたしに触れなくなったのは。

あれは確か小学生の時だった。やることもなくぼうっとしていた休日に、幽くんから電話がかかってきたのだ。いつものように淡々とした、けれどどことなく焦ったような声はやけに印象に残っている。兄さんが冷蔵庫を持ち上げて下敷きになった。どうしよう。なんて、えらく非現実的なことを言われてわたしも動揺したものだ。けれど、幽くんが嘘をつくとも思えなかったのでその事実は驚きつつもすんなりと受け入れられた。まあ、幼かったのであまり考えの余地が他に及ばなかったというのもあるだろう。聞けば救急車は呼んだらしく、あの頃から幽くんはしっかりしていたのだなあと思う。そして兄想いだ。

入院先の病院へお見舞いに行った時シズちゃんは言っていた。腹が立って、気が付いたら冷蔵庫を持ち上げていた。自分でも持ち上がるなんて思ったわけじゃなかった、と。きっとその時からだろう。彼自身も、そしてわたしも、彼の普通でない何かに僅かながらも気が付き始めたのは。
それでも、あの頃の記憶を思い返すとまだシズちゃんはわたしに触れていたはずだ。男の子のように速く走れないわたしに手を貸してくれたり、ふと引き止めるために腕を掴んだり。何気ない日常に、彼の体温はちゃんと存在していた。
じゃあ、触れなくなったのは、いつから。

それからというもの、シズちゃんの普通でない何かは日に日に大きくなっていった。教室の机を壁に突き刺さるほどの力で投げたり、標識を引っこ抜いて振り回したり。苛立ちが募れば募るほどシズちゃんが人間離れしていくようで、わたしも一時は恐怖心を覚えていたんだと思う。けれど、力を奮い暴れては身体を壊していくシズちゃんは身体だけじゃなく心も壊れていくようで、わたしが離れてはいけない、離れたくないと強く思ったのだ。
事実、シズちゃんの力を目の当たりにした周囲の人間は彼を恐れ遠ざけ始めていた。口にこそ出さないけれど、その視線は彼を化け物と呼んでいるに等しくて、まだ小学生の子供がそれに傷付かないはずなどなかった。わたしが思っていた以上に、あの時のシズちゃんは傷付いていただろう。同時に、優しさに脆くもあった。だから、自分に優しくしてくれたあのパン屋のお姉さんを助けたいと、あの人を困らせる奴らが腹立たしいと、そう思ったのだろう。けれどその行動は酷く裏目に出てしまった。

「なまえは、俺が怖くないのか」

わたしの顔を見ることなく聞かれたその言葉は、問いとは裏腹に自分自身に怯えるように震えていた。公園を照らす夕陽の色は暗くなり始めていて、帰ることを催促されているような気持ちに焦燥感が逸る。そっと手を伸ばすと、俯いていたシズちゃんはびくりと身体を強張らせながらわたしを見据えた。わたしが触れることを、恐れるみたいに。

「こわくないよ、シズちゃん」

それは、自分にも言い聞かすかのような言葉だった。シズちゃんは、優しい。わたしが幼心に呼び始めたこの呼び名だって「女みたいだからやめろ」なんて言いながら、呼べばいつでも応えてくれる。そんな風に不器用で優しい彼を好きだと思う感情が、恋心なのだとわたしはその時初めて自覚したのだ。でも、わたしを見るシズちゃんの目に揺らぐ不安が消えることはなかった。

「俺は、なまえまで傷付けるのは嫌なんだ」

ぽつり、小さく小さく呟かれる声。夕闇に溶けたそれは今思うとまるで告白のようで────帰ろう、と。仄暗い空に背を押されるよう家路へ歩き出したわたしたちの影が、いつものように手を結ぶことはなかった。

そうして、彼はわたしに触れなくなったのだ。