「私の息子は私に似ているかな。どう思うハムザ。」
「私には美術品に対して思想や価値を感じる、ということが出来ません。」
「お前は固いなぁ」
「アンドロイドですから」

2階の景色のよく見える角の部屋で私は今出来上がったばかりの今月のヨハンの新作を見ている。青を基調とする作品は彼の師匠が好んで描いたダークな色彩表現だ。窓枠のスペースに体を預けて彼は一服している。描きあがった作品を前に晴れやかな表情のようにも見えるがこれは彼にとって弔いの作品なのだろう。彼は器用なたちではないのだ。そういった意味ではこの絵は彼によく似ている。

「深淵を覗くとき深淵もまたこちらを覗いているのだ」
「フリードリヒ・ニーチェ。1880年代の哲学者ですね。」
「私は君を見ているが果たして私が見つめているのは本当の君なのだろうか」

ヨハンはこうして絵と向き合うとき自らに向き合おうとする。その思考を邪魔しないように口を詰むんでいたがいつしかその問答に私を加えるようになった。彼の中には彼なりの推論の素材が出ていてこの儀式は彼の中に落とし込む行程に過ぎない。

「私は時々考える。私は誰と話しているんだろうと。」
「アンドロイドですよ。物言わぬ人形に語りかけるに大した差はありません」
「だがお前は話す。それが境界をうやむやにする」

こういうとき、彼は納得したいのだ。
心に葛藤があって、結論できないときこうしてポロポロと輪郭を失って口から綻びていく。
「お前を誇らしく思う。お前の言葉や所作に…お前が称えられたとき我が事のように心踊る瞬間がある」
「それは……」
「お前と話すときは私は自らの鏡を見ているような気分なんだ」
「滑稽だと?」
「いや」

たまに正気に戻る。と、彼は言う。
彼は夢の中にいる。自分を見つめるため、感情と向き合うために絵を描く。
彼が筆を取る、ということは彼が人生を歩んでいるというのと同意なのだ。
自らを客観的に見ざるを得ない心の反応として私や絵をフィルターにしている
過大表現でなければ、私もまた彼の人生の一部なのだと。

「ならばそれは私への賛辞なのだ」



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