これの後日譚 / 鯉登くんは出ない


鯉登さんに、分厚い手帳を渡された。
正確には鯉登さんから直接手渡されたわけではなくて鯉登さんのお隣に控えていた月島さんを経由して渡されたのだけれど。鯉登さん曰く、お互いを知るための第一歩として文章でやりとりをするのが良いのではないか、とのことで日記や相手への質問なんかをこの手帳にしたためて数日おきに交換することになったのだ。(これも月島さんを経由して聞いた。月島さんは相変わらず面倒くさい、という顔をしていて思わず苦笑いしてしまったのは記憶に新しい)

手紙ほどかしこまって書かなくてもいい、普通の会話を紙の上でするような気持ちでいてくれればいい、とは言われたけれど、それはそれで難しいものだ。手帳を受け取ってから一日中うんうん唸って書くことを考えていたものの、思い浮かんだのは「鶴見さんに教えて頂いた甘味処の草団子がとても美味しかったです」くらいしかないからほとほと困ってしまう。鯉登さんのご趣味とか興味のある話題とか、そういうことが全然分からないからとりあえず共通の知り合いの鶴見さんのことを書こうかなあと思っちゃうんだよね…。あ、そういうところを知っていくためにもこの手帳があるんだった。じゃあ、私の趣味を書いたり逆に鯉登さんのご趣味を探っていけばいいのか。
随分と高価そうな立派な手帳を眺めながら、鯉登さんのことを脳裏に思い浮かべる。相変わらず私は鯉登さんが何を仰っているのかいまいち分かってなくて、でも彼が怒っているわけではないということだけは分かったおかげか以前に比べればそれなりに普通に鯉登さんと接することができているように思う。それは鯉登さんも同じだったようで、最近は前のように声を荒げることがほとんど無くなりとても凛として落ち着いたお声と表情で私に話しかけてくれていた。……そのせいもあり先日の一件もあり、鯉登さんと面と向かってお話するのがどうにも恥ずかしくてついつい視線を逸らしてしまったり、月島さんに助けを求めてしまう、という新たな問題も起こってはいるのだけれど…。
とりあえず美味しかった草団子のことでも書こう、なんてことを思いながら頁をめくってみると、思ってもみなかった文章が目に入って思わず息を飲む。うつくしい文字が整然と並び、その一つ一つがあまりに情熱的なことばを構成しているのだ。
空の美しさに貴女の事を思い出すだとか、貴女の笑顔が見たいだとか、私の隣で笑っていてくれ…だとか……。あの鯉登さんがふざけてこんなことを書くとも思えないし、本心から綴っているのだろう。恋文にも等しいその文章は数頁に渡ってしたためられていて、頁をめくるたびにどんどん頬が熱く温度を増していく。
ふ、普通の会話をするつもりで書いてくれればいいって言われたけど…裏を返せば鯉登さんは普通の会話つもりでこれを書いたってことになるのでは?じゃあ、普段何を言われているかさっぱりわからなかった言葉たちは、こういう情熱的な言葉だったのだろうか…。

「…前以上に鯉登さんの顔が見れなくなっちゃう気がする……」

自分が鯉登さんのことを殿方として好いているかどうかはちょっと分からないけれど、素敵な方だとはずっと思っていたし、以前抱いていた恐怖感もすっかり無くなった今では間違いなく好ましいお人だとは感じている。そんな人にこんな情熱的な事を伝えられて、今まで通り接することのできる女がこの世にいるのだろうか。私は絶対に無理だ。
月島さんのお手を煩わせるのもなんだし直接鯉登さんに手帳を渡そうと思っていたけれど、私も月島さんを経由しないと駄目かもしれない…。鯉登さんが何を言っているのかさっぱり理解できなくてよかった、なんてことをついつい考えてしまって、また苦労をかけてしまうであろう月島さんに心の中で謝った。


──素敵な文をありがとうございました、私も近頃はついつい鯉登さんのことを考えてしまいます。そんな事を書いた翌日の鯉登さんからのお返事は、先日の綺麗な字は何処へやら、みみずがのたうちまわっているような壮絶な文字で構成されていた。
…興奮すると文章でもそうなっちゃうのね……。