きっちりと撫で付けられた髪、周りの人たちとは色の違う軍服、浅黒い肌、その他諸々。鯉登さんは私が見たことのなかった要素ばかりで構成されていて、どこか恐ろしいお人だなと思う。鶴見さんから紹介されて以来、慣れぬ北海道のくらしには不自由が付き纏うであろうということで彼の身の回りのお世話を任せてもらっているけれど、ことあるごとになんだかよくわからない早口な言葉でまくしたてられ、語調の強さからしておそらく怒られているのでわけもわからず謝る、という流れがいつのまにかできてしまっているのも彼を恐ろしいと思う要因のひとつだ。
 鶴見さんにお任されたからにはがんばらないと、と張り切っていたけれど、鯉登さんとあまり意思の疎通ができていない今の状況は中々に精神が疲弊してしまう。それに、鯉登さんにきっと鈍臭い女だと思われてそうなのがまた憂鬱だ。早口で怒っている時以外の、目上の方(鶴見さんは除く)相手でも物怖じせず、凛とした態度ではきはきと喋る軍人然とした鯉登さんはほんとうにかっこよくて、その姿を見ていると私は緊張のあまりかちんと固まってしまいそうになる。その時ばかりは鯉登さんが恐ろしいという気持ちよりもときめきだとか乙女心だとかそういうものが忙しなく顔を出して、思わず彼に見惚れてしまうのだ。殿方をじろじろ不躾に見るなんてはしたないとは思うのだけれど、まじめな鯉登さんはあまりにも素敵だからしょうがない。
 …鯉登さんが素敵だからこそ、彼をまた怒らせるのではないかという不安がつきまとい、次第に鯉登さん自身を恐ろしいと思ってしまうのだ。あれほど冷静な人をあそこまで激昂させる理由と原因も、彼の早口な言葉のせいで毎度わからずじまい。鯉登さんの逆鱗はどこにあるのか、何をしたらそれに触れてしまうのかが把握できないものだから、最近ではたいまつを持ったまま火薬庫に入ろうとしているような気分で鯉登さんと接している。その事実がなんとも情けなく、あれほど素敵な人とまともに会話もできないことが……とても悲しい。


「………」
「つ、月島さん?どうかなさいましたか?」
「いや…何でもない。つまりなまえさんは鯉登少尉殿が怖い、ということで間違いはないか?」
「…はい…できれば鯉登さんとちゃんとお話しできるようになりたいのですが…」


 私が彼を恐ろしいと思ってしまうことはひとまず置いておいて、怒られてばかりの今の状況では満足にお役目を果たすことができない。それならば別の女中を鯉登さんの身の回りのお世話に当て、私は今まで通り別の仕事をしたほうがよっぽど効率がいいだろう。そう思い、事の経緯を月島さんに相談したのだ。…恥ずかしいので、鯉登さんにときめいてしまう、といったことは話していない。
 月島さんは普段からよく鯉登さんの側に控えてるお方だ。きっと気難しい鯉登さんのことを私より理解しているはずだと思い彼に相談したのだけれど、今の謎の間や複雑そうな表情を伺う限り彼は彼で鯉登さんに関して悩んでいる事があるのかもしれない。軍人さんって、なにかと大変なんだなあ…。


「自分も鯉登少尉殿には少々手を焼いていてな」
「ええっ!?月島さんがですか?」
「そんなに意外か?」
「だってお二人とも冷静でよく頭の回る方でしょう?きっと気が合う…というか、行動や思考が上手く噛み合いそうだなあと思っていたので…」
「…全くそんなことはないぞ」


自分の予想が間違っていなかったことにもだけれど、月島さんが本気の声色で「そんなことはない」と言っていることにかなり驚いて思わず苦笑いを浮かべてしまった。
 けど…月島さんは鯉登さんが何を言っているのか分からないとか怒鳴られるとか、そういうことはないんじゃないだろうか。普段お二人が一緒にいるところに遭遇したときはかっこいい鯉登さんしか見ないし。手を焼く…手を焼く、ねえ。好物が被ってて、上官命令で月島さんの好物を鯉登さんが奪ってしまう、とかそういうことがあるのかな。…そんな鯉登さんは全然かっこよくないし、この想像は是非とも当たらないでほしい。


「鯉登少尉殿はだな…その…」
「何か言いづらいことですか?」
「率直に言うと面倒くさい」
「めんどうくさい」
「ああ」


 鯉登さんが、面倒くさい…。自分以外の前でははきはきとした竹を割ったような性格の方という印象だったものだから、頭の中で鯉登さんと面倒くさいという単語が上手く結びつかない。それに月島さんが面倒だというほどだし、よっぽどのことがあったのだろう。にわかには信じがたくて思わず目を瞬かせてしまった。


「…なまえさんが鯉登少尉殿を恐れていることを彼は知っているようでな、実は鯉登少尉殿からそのことで先日相談受けたばかりだ」
「こ、鯉登さんがですか?本当に?」
「その時もそれはもう面倒くさくてだな……」


 月島さんの言葉を遮るように、猿のような叫び声とともに背後の障子がものすごい勢いで開け放たれて思わず私も情けない声で叫んでしまった。噂をすればなんとやらだな、と月島さんが呟いて、誰が現れたのか容易に想像できてしまう。別に悪口を言っていたわけではないし、ただ月島さんに相談に乗ってもらっていただけなのだけれど、何となく顔を合わせるのが気まずくて後ろを振り向く事ができない。視線がちくちくと背中に刺さってきて、ひい、と引きつった声が喉から漏れる。身に覚えのありすぎる視線と威圧感に借りてきた猫のように身も心も萎縮してしまった。


「月島ァ…!」
「…ご苦労さまです、鯉登少尉殿」
「男女二人でこんな狭い部屋になぞ…はしたない!!貴様ッなまえと二人きりでッ何をしていたァッ!!!!」
「ただ単に茶を飲んでいただけですが」
「本当にそれだけか!?」
「本当にそれだけです」


 鯉登さんが、怒っている。怒って、いるのだけれど…。普段の彼の怒鳴り声よりも威圧感が数倍厳しくて、あと、ちゃんと聞き取れるように怒るのだなあということに思わず驚く。
 何故月島さんに対してこれほど怒っているのかだとか、一応普段は手心を加えて怒鳴っているのだなとか、折角入れたお茶が冷めてしまうなあとか、驚きのあまり思考があっちこちに飛んでいっていた私を現実に引き戻したのは、肩にそっと乗せられた熱い手のひらだった。


「こ、こい、鯉登さ…!?」
「婚姻前の女性と二人きりで茶を飲むなぞそれはそれで破廉恥だぞ月島ァ!!」
「はあ」
「ーーーー!!!なまえ!!ーーーーーーッッッ!!!!!」
「ひいっ」
「ーーーーーーーーーーーー!!!!!ーーーッ!!!」
「あうう、す、すみませんっすみませんん…!」


 やっぱり何を言われてるのか全く理解できないまま怒涛のように降り注ぐ怒声にひたすら謝る。自分の名前くらいしか聞き取れなくておろおろしていると、月島さんが眉間を抑えて頭を痛そうにしながら深い深いため息を吐いた。たすけてください、と声を出さずに口をぱくぱく動かして助けを求めてみるけど、明らかに月島さんの目が諦めろ、と言っている。
 私じゃ絶対に止められないですお願いします本当に怖いんです。無理だ、俺にも止められるかわからん。面倒くさいからそう言ってるわけじゃないですよね…!? そんな内容のことを、話しているわけではないけどお互いの視線でなんとなく意思疎通をする。それを見たからか何なのか、再度怒りの矛先が月島さんへと向いた。


「月島…!それは私への当てつけかッ!」
「当てつけ…とは…」
「視線だけで会話が出来るなぞ…そんなの…そんなのは…ッ!」
「はあ」


 はた、と、月島さんを怒る鯉登さんに違和感を感じて冷静になる。鯉登さんって普通に怒れたの?じゃあ何で私に対しては聞き取れないくらい激しくまくし立ててくるんだろう…?普段の私がなにかとんでもないことをしでかしているからというわけではなく、同じ状況で月島さんと一緒の理由で怒鳴られているのに、私に対して叫ぶ時だけ一切理解できなくなるということは、相手が私だから?
 目を白黒させていると背後に立っていた鯉登さんが月島さんの側へと移動し、耳元でぼそぼそと喋り始める。し、視線で会話することに私には聞かせられないような悪い理由があるのかな…。


「なまえさん」
「はいっ!?」
「あー…鯉登少尉殿が、月島とはどういう関係なのか答えろと」
「な、何故月島さんを介してるんですか?直接言えば…」
「これは…気にするな」
「ええ…?えと、月島さんとの関係、でしたっけ」
「ああ」


 月島さんには時々私のおすすめの銭湯を紹介したり、休憩中にお茶菓子をお裾分けしたりと、第七師団の中では比較的交流の深いひとだ。厳しいように見えて月島さんは私たち女中を怒鳴りつけたりすることはないし、何かと気にかけてくださるとても優しい方である。私はあまりお給金が多いわけではないけれど、ついつい月島さんに食べて頂きたくてお団子を買ってきたりするくらいには彼に対して親近感やなんやらを抱いている。決して餌付けをしようとしているわけじゃないんだけれど、月島さんがお団子をむちむち食べている様はなんだか可愛らしくてついついあれもこれも食べて貰いたくなるのだ。元服をとうの昔に迎えた男性に可愛い、なんて単語は似合わないけど、可愛く見えてしまうんだからしょうがない。
 けれど、この関係に下心のような不純な感情は一切ない。月島さんとの関係を一言で表すなら…。


「お友達、でしょうか…?こんなことを言うのは烏滸がましいですけれど」
「本当だな月島!?」
「…彼女が嘘を吐く必要なんてないでしょう」
「そうか…友達……友達だと!?」
「はい、現に彼女からは鯉登少尉殿との関係について相談を受けていただけです。やましいことは一切ありません」
「私との?」
「鯉登少尉殿とお話しできるようになりたいそうです」


 面と向かってそのことを本人に伝えられてしまうとなんとも恥ずかしい。はしたない破廉恥だと散々怒鳴りつけられたこともあって、男性とお話ししたいなんてことを相談するなんてとんだ破廉恥な痴れ者だと思われてしまうんじゃないかという嫌な予感が頭を過る。否定しようとしたけれど実際相談したことは事実であったし、恥ずかしさのあまり金魚のように口をぱくぱくとさせることしかできそうもなかった。カッと顔が熱くなって、頬に血液が一気に集まっているのが鏡を見ずとも分かる。きっと私の顔は茹で蛸のように真っ赤になっているに違いない。


「お、お恥ずかしながら…鯉登さんの言っていることが私にはわからないんです…!先程もどのように叱られているのか全く分からなくて…!いつもいつも鯉登さんを怒らせてしまってばかりなので、その、次こそは粗相をしないようにと思ってはいるのですがいかんせん原因がわからず…!」
「ま…待て、月島ッ私は彼女に対して怒っているように見えたか!?」
「ええそれはもう」
「私の存在自体が不愉快ということでしょうか!?そういうことであれば他の女中の方に鯉登さんのことをお願いしますので、うう、そのう、怒鳴らずに…理由を聞かせて頂けませんか…?」


 自分で言っておきながら、鯉登さんに嫌われているかもしれないという可能性に思わず涙が溢れそうになってしまって顔が歪む。うう、とんだ不細工な面をお二人に晒してしまっているのでは…!?怒鳴らずに、なんて不躾なお願いの仕方をしてしまったけれど、いざ冷静に淡々と醜い面を晒すな、不愉快だ、お前なんぞが私の身の回りの世話を任されるなんて100年は早いと罵られたらどうしよう…。
 緊張と恐怖でだんだんと尻すぼみになりつつも「お願いします」とどうにか言葉を絞り出し、兎のようにぶるぶると震える。自分のことをあんなふうに可愛らしい動物に例えるなんて烏滸がましいぞ!と頭の中で考えていることすら罵倒されるのでは、なんてありえないことにまで恐怖を覚えて俯いていると、駆け寄ってきたであろう鯉登さんに急に両肩を掴まれて身体の方向をぐるりと横に回され、鯉登さんと向かい合う状態にされた。
 す、と鯉登さんがしゃがみ、床へ膝をつく。その行動に驚き、陸軍少尉殿にそんな行動をさせてしまうだなんてと反射的に謝ろうとしたけれど、しゃがんだことで合わさった視線に射抜かれて、綺麗な顔に思わず見惚れてしまう。
 …私はなんて現金な女なんだろう。こんな、つい数秒前まで恐怖でばくばくしていた心臓が、鯉登さんの顔を正面からまじまじと見ただけで別の意味でどきどき早鐘を撃ち始める。そういえば、鯉登さんのお顔を正面から見たことなんてなかったな。いつも怒られるから私はすぐに俯いてぺこぺこ頭を下げてばかりだったし、怒っていない鯉登さんを見るのは他の方とお話ししている時ばかりだから横顔くらいしかまじまじと見たことはない。
 緊張のあまり視線を逸らしてしまいそうだけど、鯉登さんの目があまりにも真剣なものだから、全身のありとあらゆる部位がかちんと固まってしまう。


「こ、こいと、さん…」
「なまえ…」


 肩に添えられた手のひらが、熱い。なぜこんなに熱く感じるのだろう。緊張のあまり私の血の気が引いてしまっているのかとも思ったけど、こんなに頬が火照ってしまっているのだからそれはきっとないだろう。そんなことをぐるぐる考えていたら、鯉登さんが静かな声で、ぽつり、と言葉を漏らした。


「ーーーーーーー?」
「へっ」
「ーーー、ーーーーー…ーーーー」
「えっちょっあの、こい、鯉登さん?」
「ーーーー」
「な、あのう、何を仰って…?」
「なまえ、鯉登少尉殿のコレは怒っているからじゃない」
「えっ…えええ…?」
「鯉登少尉殿は薩摩の出でな、訛りがキツ過ぎる上に早口になると俺たちでは全く聞き取れんのだ」


 安心しろと言っていいのかはわからんが、鯉登少尉殿は鶴見中尉殿に対してもこうだ。月島さんのその言葉にどっと全身の力が抜ける。い、今までずっと怒られてたわけじゃ…嫌われてたんじゃなかったんだ…。よ、よかっ…た…。


「あー…その、なんだ。以前鯉登少尉殿に相談をされた時の口ぶりからして…なまえさんに自分の言っている事が伝わっていないことを知らなかったらしい」
「えっ」
「緊張して思わず声を荒げてしまうことが原因かもしれない、とは仰っていたが…」


 鯉登さんが緊張するなんてそんなまさか、でも月島さんが相談してきたと言うなら事実なのだろう。呆気に取られている間にしゃがんでいた鯉登さんはいつのまにか月島さんの横へと移動しており、そしてひそひそとなにかを耳打ちする。


「あー、私がなまえを誘ったり褒めてもなまえは謝ってくるばかりだったから、嫌われていると思っていたそうだ」
「そ、そんな、嫌ってなんて」
「まさか伝わっていないとは思ってもみなかった、すまない、だそうだ」
「月島さんを仲介しないと普通に喋れないんです、ね…?」
「…ああ」


 どうだ、面倒くさいの意味がわかっただろう。明らかに月島さんの目がそう言っているのが分かって、思わず苦笑いをする。嫌われていたわけでも、ずっと怒られていたわけでもなかったことを知り、ほっと胸を撫で下ろす。と同時に、先ほどの月島さん…を仲介した鯉登さんの言葉に耳を疑った。
 『私がなまえを誘ったり褒めてもなまえは謝ってくるばかり』………。
 つ、つまり、ずっと鯉登さんは私をなにかしらに誘って下さっていた?褒めて下さってもいた…。月島さんと二人でお茶をすることに対してあれほど激昂していた鯉登さんが、私を誘うことに対し何の感情も抱いていないとは思えない。いや、私の事がそういう対象として眼中にないからこそ誘っていたのかもしれないけど。でも、鯉登さんはそう他人を褒める人でも誘う人でもないし…!
 頭の中がこんがらがって、でも自分が考えたことに対して急速に恥ずかしくなり血液が沸騰しているのではと思うくらい全身が熱くなる。な、なんてはしたないことを考えてしまったのだろう。鯉登さんが私みたいのをそんな目で見るわけが、ない。
見る、わけが…。

 ちら、と鯉登さんを見ると、凛とした顔でこちらをじいと見つめていた。まじまじとそのお顔を見てみると、他の方に向ける表情とはどこか違うように思えてくるから人の思い込みというのは不思議なものである。鯉登さんの視線が熱っぽいような…そんな気がしてきて、しまいには彼が鶴見さんへ向ける表情と似たものさえも感じ始めてきてしまって………。


「わ、私!鶴見さんから申しつけられたお仕事がありますのでっ!」


 視線に耐えきれず、失礼します!と叫び性急に部屋から飛び出し廊下を駆け抜ける。嘘は言っていない、鶴見さんからの仕事を確かに私は承っている。別に今じゃなくてもいいお仕事だけれど。でも、早く済ませてしまったほうがきっといいし、なんて自分に言い訳をしながら、まだまだ熱を持った頬に手を当てた。
 ずっと鯉登さんのことが怖くて、明日また鯉登さんに叱られたらどうしようという不安でいっぱいだった。けれど今は、もっと別の不安で頭がいっぱいで破裂しそうだ。

明日から一体、どうしよう。


.
「私はまたなまえに何かしてしまったか!?怖がらせないようにと黙っていたが…」
「いや今のは怖がらせたわけではないと思いますが」
「はああ熱い…なまえを前にすると顔が赤くなってしまっていかんな…」
「…今赤くなってるんですか」
「ど、どう見てもなっているだろうッ」
「(全くわからん)」
「なまえ…なんて愛い奴なんだ……しかし私の言葉が通じていないとは盲点だったな…次から彼女と話すときは月島を連れていなければ」
「(…やはりこの人を相手にするのは面倒くさい)」