私の名前はなまえ、それ以外のことは何も知りません。自分のことだというのに、その名前すらも教えられて知ったことです。
私にはここ数ヶ月の記憶しかありません。どうやら記憶喪失らしいのです。そんな産まれたての赤ん坊と対して違いのないような私に知識を与えてくれ、守ってくれている人は、煙さんといいます。彼は、とても大きな組織のボスだそうです。


「なまえ」
「はい、なんですか煙さん」
「体調はどうだ?昨日はあまり飯を食ってなかったようだが」
「問題ないです、ただあまりお腹が空いてなかっただけなので」


煙さんには敵対する組織や暗殺者や…とにかく敵が多いらしく、頻繁に襲撃を受けるそうです。私はそれに巻き込まれて記憶喪失になってしまったらしいのですが、生憎私には記憶がないのでそれが真実なのかはわかりません。
もしかしたら嘘なのかもしれません。最近気付いたことですが、煙さんはいじわるな人で、時々面白いからという理由で嘘をつくことがあるのです。でも、煙さんは実は優しい人だということも私は知っています。これは教えられてではなく自分で理解したことなので、間違いなく本当のことです。
なので私が記憶喪失になったという理由が嘘なのだとしたら、それはきっと真実を知れば私が酷く傷付いてしまうのでしょう。もしかすると、煙さんと離れてしまうような結果になるかもしれません。以前ーー記憶を失くす前はどうだったかは今の私には知り得ぬことですが、今の私の世界は煙さんだけです。
私には煙さんしかないので、たとえ煙さんの言った理由が嘘であったとしても、私は真実を知りたいとは毛ほども思いません。きっと私にとって一番辛いことは、煙さんがいなくなってしまうことなのです。


「煙さん」
「何だ?」
「…ふふ、呼んでみただけです」


煙さんは何も言わず私を抱きしめました。あまりにもぎゅうぎゅう強く抱き締めるものですから、少し苦しくなってしまいます。けれど、嫌ではありません。お返しとばかりに私も煙さんの背中へ腕を回します。愛する人とこんなに触れ合えて、私はなんて幸せなのでしょうか。
…でも、私は煙さんといるとどうしても気になってしまうのです。
以前の私は煙さんとこんなやりとりをし、こんな風に抱き合っていたのでしょうか?どんな感情を抱き、どんな思い出を持っていたのでしょうか…。煙さんと自分がどう出会ったのか、私には知ることができません。煙さんに問うてみても、“出会うべくして出会った”としか言ってくれないからです。そんな回答で理解できるはずもありません。
しかし、以前の私は二人の出会いを知っているのです。私の知らない煙さんとの会話が、思い出が、想いがあるのです。…その事実に、どうしようもなく嫌な気持ちになってしまいます。私は自分に嫉妬をしているのです。なんて心の狭い人間なのでしょう。なんて愚かで、なんて浅ましいのでしょう…。
煙さんにこのことを言ったら、馬鹿だと笑ってくれるのでしょうか?そうしてまた抱き締めてくれるのでしょうか。


「煙、さん」


でも私は、もしかしたら煙さんに愛されていないのかもしれません。だって今の私は、煙さんとの大事な思い出を失ってしまっています。以前の私が持っていたすべてを無くしてしまった私は、はたして煙さんが愛した私と言えるのでしょうか?容れ物が同じだけの、全くの別物なのでは?煙さんは以前の私を重ねて見ているだけであって、今の私自身を愛してくださってるわけではない…そうなのでは、ないのでしょうか?


「…なまえ、何故泣くんだ?何か不安なことでもあるのか?」
「い、いいえ、不安なことなんて…だって、だって…煙さんは私を…」


声が震えて、それ以上は言えませんでした。目からはぽろぽろと涙が溢れ出し、止まらなくなってしまいます。私はもうどうしようもないくらいに煙さんを愛してしまっているのです。人を愛するというのは、こんなにも苦しいことなのですね。また一つ、私は学びました。今、私は以前の自分に近付いたのか…それとも離れてしまったのか。それも私には分かりません。
煙さんは私を愛してくれていますか?上手く声を出せず、ゆっくりと唇が震えるだけ。そんな私を見て、煙さんは心底嬉しそうに頬を撫でてくれます。


「愛してるに決まってるだろう。記憶があろうが無かろうが、お前の性格自体が変わってしまったわけでもない…くだらんことで悩むな」
「っ、ふふ、煙さんには…何でもお見通しなんですね」
「俺だからな」


私の頬を包む煙さんの大きな手のひらに擦り寄ると、無性に悲しい気分になりました。私だけが煙さんにこうしてもらえていたらいいのに。私だけが煙さんの素敵なところを知っていて、煙さんだけが私のことを知っていてくれたら、それ以上に幸せなことはないのでしょう。
もう一度、先ほどと同じように強く抱き締められて一瞬息が詰まりました。私も同じように負けじと煙さんを抱き締めます。私の肩に顎を乗せ、くつくつと笑う煙さんはきっといじわるな顔をしていることでしょう。企みが上手くいったような、そんな声をしています。その声に少しだけ違和感のようなものを感じましたが、その理由は私には分かりませんでした。


「好きです煙さん。世界中の誰よりもなによりも、あなたが…どうしようもないくらいに、好きです」


ああ、私はこのまま煙さんの腕に絞め殺されてしまっても構いません。煙さんの手に掛かって死ねるならば、それもまた幸せなのでしょう。どんな結末が私を待っていようとも、私は煙さんに愛して貰えてさえいれば、きっと世界中の誰よりも幸せなのです。