どろどろと濁った液体のようにも見えるそれは、父の身体に纏わり付いて離れようとはしない。私には一切触れることなく父へと向かった真っ黒いケムリを、ただ茫然と見つめていた。

ーーファミリーの皆が殺された。父が悲痛な面持ちでそう告げたのは、つい数時間前のことだった。うちはあくどいことをしているわけでもないしどこかから恨みを買うような組織じゃないのに、一体なんで?第一、仲間はそんなに多くはないけれど少なくもない。それがたった一日で全員殺されるだなんて、一体どこの誰がやったっていうんだ。
恐ろしい。けれどそれ以上に、憎い。どんなやつだろうが、私が到底敵わないような敵だろうが、そいつだけは絶対に許さない。絶対に殺す。殺してやる!
でも、そんな私の気持ちとは裏腹に父さんは私を連れて住み慣れた家から飛び出した。走って走ってひたすら走って。一言も喋らず私の手を引く父さんの顔は、私が今までに一度も見たことのない表情だった。
その父さんの痛々しい表情にどうしようもなく悲しくなってしまって、握られた手を振りほどいて立ち止まったのが悪かったのかもしれない。もしかしたら立ち止まらなくともそうなっていたかもしれないし、手を離すことなく父さんに従っていれば誰とも分からない敵から逃げ切れていたのかもしれない。でも今となってはどの選択肢が正解かなんて、私には分からなかった。


「父、さん…」


震える唇からは、掠れた声しか漏れない。父さんの呻き声が小さく聞こえてきて、ふっとケムリは晴れた。そして飛び込む紅、おぞましい極彩色。私の目の前に広がっていたのは、もう父と呼べる代物ではなかった。
体内から皮膚を突き破るように飛び出す無数の傘、柄。脚や腕は変形して歪な茸と化している。赤黒い液体が止めどなく溢れ出ていて、それはもう父が助からないであろう事実を嫌というほど突きつけていた。はくはくと息を漏らす父さんの唇は、逃げろ、とだけ形を作って、動かなくなってしまった。
この魔法は魔法使いなら誰でも知っているはずだ。もちろん私も知っている。何もかもキノコに変えてしまう魔法、そんなのあいつしか居ない。


「煙……!!」
「ほう、俺の事を知っていたか」
「こんな有名人、知らないほうがおかしいっての…」


振り返れば真っ赤な髪を逆立てた男がこちらを見据え立っていた。煙ファミリーのボス、煙。絶大な力を誇り悪魔にも知り合いが居るとかいうとんでもない男。それにしても、何故こんな奴がうちのような弱小ファミリーを狙ったんだろう。向こうの縄張りを荒らすようなことはしていないはずだし、こっちが目障りになるようなこともないはずだ。
まあ、いくら考えても向こうの思惑なんか理解できるはずもない。それよりも目の前に大事なファミリーの仇がいることにかっと身体中が熱くなって、ふつふつと殺意が湧き上がる。大事な仲間がやられて黙っていられるほど私は冷静な人間じゃない。私だって魔法使いだ、ここで力を使わなくて一体どこで使うっていうんだ。
私が煙に勝てるだなんて思ってはいないけれど、刺し違えてでもこいつは生かしておけない。私はもうここで死んでしまったって構わない。皆のもとへ逝けるのなら、この命が無くなってしまっても良い。


「お前は!お前だけは絶対に許さない!殺す!!殺してやる!!」


思考するよりも先に、殺す、という言葉とケムリが噴き出す。もう、憤怒と怨念だけが私を動かしているようなものだった。考える前に勝手に身体が動く。煙に軽く避けられてしまっても逃がすものかとケムリを出し続けたが、対して煙は私の噴出したケムリを撃ち落とすための最低限の量しか出していない。誰が見ても力量差は圧倒的で、まるで子供をあやしているかのような余裕の表情と動きだった。
攻防は時間にしたら恐らく数十分ほど続いたが、その終わりは呆気ないものだ。怒りのあまりペース配分なんてものを考えずにケムリを出し続けてしまったせいで、不意の一瞬の隙を突いて煙に飛び掛かったときには指先からは少しも黒が噴き出すことはなかった。
ああ私は死ぬのか、と妙に冷静に考えた。煙へと向かって無防備に落ちていくだけの私に空中で方向転換ができるはずもなく、もう死しか残っていない。気がすむわけではないが、最期に恨み言の一つや二つでも浴びせてやろうーーそう思っていた私を襲ったのは黒いケムリではなく、予想外の言葉だった。


「あんな攻撃が通じると思ったか?馬鹿な女だ…そんなところが、どうしようもなく愛しいがな」


信じられないセリフを耳にして固まる私はケムリを吐きかけられることもなく、煙の胸へとなだれ込んでいた。そしてそのまま、煙に抱き締められる。
こいつ、今、何て言った?ぞわぞわと背中が粟立つ感覚と身体中を駆け抜ける嫌悪感に吐き気を催しながら、私は煙を睨みつける。


「ふざ、けるな…!ここでそんな冗談をいうほど私を馬鹿にしてるのか!お前は何のためにファミリーの皆を殺した!!」
「ああ、あのザコどもか…そんなの邪魔だからに決まってるだろう?お前の父にいくら取引を持ちかけても首を縦に振らなかったからな、強行手段に出たまでだ」
「は…?取引…?」


頭の中がぐしゃぐしゃになって、上手く処理ができない。何が起こっているのかよく分からなくて、私はぽかんと口を開けることしかできなかった。本気なのかこの男は。なら、まさかこいつは、


「わ、私を手に入れるために?」
「フフ…そうだ、お前を俺のモノにするために邪魔な奴らを消した」


なぜか堰を切ったように涙が溢れ出した。自分の中で、何かが絶叫している。危険信号のようなそれは私の頭を内側からがんがんと殴ってきて、次第にひどい耳鳴りを連れてきた。嫌悪感、混乱、いろんな感情がないまぜになり、さっきまで抱いていた殺意が押し退けられてしまう。そのせいで麻痺していた強大な敵に対する恐怖感がどっと押し寄せ、膝ががたがたと震え始めた。
逃げなきゃ、とにかくこの男から逃げなければ!でも皆の仇を討たなきゃ、ああ駄目、駄目、耐えられない。逃げたいーーーそんな考えが洪水のように溢れ出し、思わず喉から引きつった声が漏れる。私を抱き締める苦しいほどの力がこもった煙の腕は女の私では到底引き剥がせない。憎いこいつから、私はどうやったら逃げ出せるのだろうか。
がたがたと震えながら虚勢を張って睨め付ける私の目の前に、煙は小さな瓶を差し出した。透明なその中には、黒いケムリが渦巻いている。魔法を閉じこめた瓶だ。以前、私も回復系のそれを買いに行ったことがあった。何でその瓶をいま私に見せ付けてくるのか理解できず、私はただ煙を睨みつける。きっと威圧感なんて毛ほどもないひどい表情だっただろうけれど、視線を逸らさずにいたのはただの意地だった。


「このラベルの男に見覚えはあるな?」


クルリと瓶を半回転させ、こちらへ見せ付けられたそのラベルには確かによく見覚えのある顔があった。間違いようのないその顔は、殺されたファミリーの一人。仲がよかったその子は、写真の中で普段と変わらない人懐っこい笑みを浮かべている。たった数日前に会ったはずなのにもうずっと会ってないような気すらするその笑顔に、思わずぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。
そして気付く。煙が何をしようとしているのか、この子の魔法が何だったか。


「はなっ、離せ!離せぇっ!」
「なかなか物分かりがいいな。そうだ、お前が考えている通りのことが起こる」
「嫌だ…父さん!父さん!!」


最初はケムリが少しも出なかったあの子が、なまえちゃんのお父さんのお陰で魔法が使えるようになったよ、と嬉しそうに私に教えてくれた魔法はとても珍しいものだった。瓶の栓が抜かれると同時に、噴き出したケムリで視界が真っ黒に染まる。
ーー僕の魔法ね、人の記憶を消したり書き換える魔法なんだ。これがあったら皆の役に立てるよね。なまえちゃんの役に、立てるよねーー
あの子の声が笑顔が、頭の中で響いて、そして消えて行く。大事なファミリーの皆の顔が思い出せなくなって、ぽろぽろと全てが抜け落ちて、頭の中が真っ白になって。私の記憶が全て無かったものにされていっているその感覚は、酷く悲しいものだった。

「うあ、あああ…ぁあ…!」
「すぐに何も分からなくなる…自分が誰なのか、俺が誰なのか。何もかも無くなって、俺に縋るしかなくなるさ
「うぅ…ころ、す…!煙、絶対に殺す…!世界中の誰よりもなによりも、お前が!どうしようもないくらいに、憎い!」


父にファミリーが死んだことを告げられたとき、胸に宿った憎しみよりも数倍深い憎悪の念ですらすうっと掻き消されていく。思い出も感情も何もかもが、全てが消える。ーーもう何も思い出せない。自分がもう、自分では無くなってしまった。
沈んでいく意識の中、黒い視界でほんの少しだけ見えた誰かの顔は、酷く愉快そうで歓喜に打ち震えるような笑みを浮かべていた。