今日も突然家に澄野さんが押しかけてきた。押しかけてきたというか、私が家に帰ってきたらリビングで堂々とテレビを観ていた。しかし私は断じて彼に合鍵を渡すなんてことはしていないし、戸締りもきっちりしていたはず。どう考えても完全なる不法侵入である。でも何を言っても澄野さんには通じないから厄介な話だ。

「邪魔してるぞ」
「はあ…」

ほんとなんなんだこの人…。テレビは占領されているし、澄野さんがいるのに風呂に入るのもご飯を食べるのもなんだか危険な気がしてなんとなく本棚を眺めていたら、背後からほっぺたを数度突かれて名前を呼ばれた。なまえ、と私を呼んだその声がやけに近くに聞こえたことを私は気にするべきだったのだ…。

「ヴァッ」

動揺しすぎて思わず変な声が出るのも仕方が無いことだと思う。振り返った私を待ち構えていたのは超どアップの澄野さんの顔面だったのだから…むしろこれで驚かない人がいるとしたらその人は人間じゃないな。キリノくんなら今頃気絶してたぞ!
それにしても、なんなんだこの人は…そんな呆れにも似た疑問と、少しのドキドキが混じった不思議な感覚が頭を支配する。身体の外に飛び出すんじゃないかってくらいに私の胸を叩く心臓は一向に収まろうとはしてくれない。

「すっ、すみ、澄野さっ…」
「どっから出したんださっきの声」
「それは聞かないで頂けると嬉しいというかなんというか」

私の鼻の頭と澄野さんの鼻の頭は一ミリの隙間も無く完全にくっ付いていて、少しでも動けば唇が触れてしまいそうな距離だ。澄野さんが言葉を発するたび息が皮膚を撫でてちょっとこそばゆい。わき腹を撫でられたときのような気の抜ける感覚にどこか近くて、「あぅ」だとか「ひっ」だとか、そんな間抜けな声が漏れそうになって思わず下唇を噛んだ。身体を思い切り引いて澄野さんから離れようとするものの、彼の大きな手のひらで顎をがっちりと固定されてしまって動くに動けない。
ほんと一体なんなんだろう、キスでもするつもりなのかこの人は。こんなムードもへったくれもない状況で!?澄野さんが何をしたいのかも分からないし私に何を求めているのかも全く分からなくて、私は両手をふらふらと彷徨わせることくらいしかできなかった。

「おいそんな口噛むな。せめて息しろ」
「うぇ、」

澄野さんが顎を掴んだまま私の下唇を引っ張る。触れた体温に、その仕草に、ただでさえ早鐘を打つ心臓がどきんとさらに大きく跳ねた……

「なんてこたぁなかった!!」
「うるせぇ」
「そりゃあこれだけ近かったらうるさいでしょうよ!」

少女漫画でありそうな親指で下唇をゆるく押さえる仕草ではなく、人差し指と親指で思い切り下唇をつまんで引っ張られている。さすが澄野さん、いい雰囲気なんてこれっぽっちも漂わない。こんな人にムードを求める私が馬鹿だった。そんなことを考えているうちに澄野さんの指の力はどんどん強くなっていく。ちょっ、本当に痛い!シャレにならない!腕を拘束されているわけではないから必死に澄野さんの手を引き剥がそうと引っ張ってみても人の姿をしたゴリラに一般人である私では太刀打ちできそうになかった。

「いいいいい痛いいいいいいい」
「おお、伸びる伸びる」
「ちぎっ…ちぎれるっ…!」
「大丈夫だろ」

なにが大丈夫なもんか!澄野さんを睨みつけながら手のひらをバシバシ叩いていたら、あの何とも言えないうんざりしたような呆れたような表情をして何とか手を離してくれた。あまりの痛さに目尻には涙が溜まっていたし、掴まれていたところは未だにひりひりと熱を持っている。下唇を一舐めしたらうっすらと鉄の味が口の中に広がった。うわ、血滲んでるし…

「うう、急になにするんですか澄野さん……」
「今凄いちゃちなドラマやっててな」
「それでこういう風なシーンがあったんですか…?でやってみようと?」
「ああ」

私の唇に多大なダメージを与えたことに悪びれる様子もないその姿に乾いた笑みが思わず漏れる。そのドラマのワンシーンは絶対にこんな痛みを伴うものではなかったはずだ…ていうか、相変わらず難しいなこの人は!そういう甘ったるい行為を澄野さんがしようとしたなんて意外だけど、結局私が変に被害を被って終了するあたりがなんていうか澄野さんらしい。うう、それにしても痛い…痛すぎる…。澄野さんに背を向けてへたり込むと、また声をかけられた。嫌な予感しかしない。

「おいなまえ」
「ふ…振り返ったらまた痛い目みるなんてこと無いですよね…?」
「いいからこっち向け」
「ぐえっ」

振り向くのをためらっていたら頭頂部を鷲掴みにされ、勢いよく捻られた。く、首が変な音立てたんですけど!咄嗟のことに防御もできず、私はまたもや澄野さんと顔を突き合わせることになった。さっきよりは開いている互いの距離に、少しだけほっとする。でも、ほっとしたのは一瞬だけだった。

「やっぱシンプルなほうがいいな。俺もお前も、変な駆け引きやらなんやらはいらん」

私の額に、少しかさついた柔らかなものが触れてすぐ離れた。突然のそのあたたかさに私は金魚のように口をはくはくと動かすことしかできなくて、ただ澄野さんの顔を凝視する。そこには人の無茶を楽しむ時や菅田くんを見ている時とは全然違う優しい笑みを浮かべた澄野さんがいて、火が出るんじゃないかってくらいに顔が熱くなった。この人、こんな笑い方できたの。さっきと違って、澄野さんを引き剥がそうって気も起きない。

「どうした物欲しげな顔して」
「うううっ…してないですそんな顔…」
「ハハハ」

澄野さんの表情はいつも通りの意地悪な笑みになってしまっていたけれど、さっきの顔が衝撃的すぎてなかなか直視できない。最初に至近距離に澄野さんの顔があった時以上に心臓が激しく動いているぞ…真っ赤になった顔を両手で隠して唸り声を上げていたら、澄野さんは満足したのか私をいじめたかっただけなのか、またテレビのほうへと戻って行った。
な…なんか澄野さんばっかり余裕で気に食わないな…!私は今かつてないほど対抗心が燃え上がっているぞ!どっかりと胡座をかいて座りこむ澄野さんのほうへと走って行き、澄野さんの頬を両手で挟んで無理やりこちらへと向かせる。

「私、やられっぱなしで黙ってるほど大人しい女じゃないんです」

急にどうした、とぼそっと呟いた澄野さんが本当に驚いたような、ちょっと引いた顔をしていて若干むかつく。目を見開いた澄野さんを睨みつけながら、私は先ほどのお返しとばかりにキスをした。