はぁ、はぁ。はぁ、はぁ。
物音ひとつしない薄暗い部屋の中、右角の息を吐き出す音と床に縫い付けられた手首の痛みがやけにはっきりと感じられて、それらが私の頭を急速に冷やしていく。右角に押し倒されているというよくわからない状況なのに思考は酷くクリアだ。
少し荒い息づかい、唾を飲み込む喉の動き、尖った牙。今の右角は"野獣"そのもので、私の知らない別人に接している気分になる。ぽた、と私の頬に落ちた右角の玉のような汗がやけにひやりと冷たくて、思わず眉間に皺がよった。

「……右角、いたい」

そんな私の言葉は右角の鼓膜を震わせずに空気に溶け消えてしまう。今の右角の全身を満たしているのは右角を野獣たらしめる、例のオンガクである。右角の耳にねじ込まれたイヤホンからは結構大きな音が漏れていて、こんなんじゃ私の声なんて届くはずもないか、と妙に他人事のように考えた。この奇妙な状態から一刻もはやく脱したいのだけれど、私の声は届かず右角は動かずという、まあ硬直状態というやつに陥っているためその願いは到底叶いそうにない。
右角が何をしたいのかも全くわからないので、抗議の意味も込めてただじっと右角を見つめる。右角は相変わらずはぁはぁと荒く呼吸をしていて、よくよく見てみると眼はひどく虚ろであった。こっちを見ていない。私の目の前にいるけれどいないような感覚で、少し悲しいようなさみしいような心持ちになってしまう。

「右角」

やはり反応はない。
時間というものが無いに等しい地下ではいつも誰かが怒声と罵声を上げながら将棋を打っている。なのに今日は外から一切そういう音が入ってこなくて、内も外も普段と違うのか、とふと考えた。
将棋亡者たちも右角も何かに当てられたのだろうか?その“何か”を知らない私だけが別の全く違う世界に来てしまったような気分だ、なんてことを考えていると、急に右角が私の名前を呼んだ。その声がやけに明るくて面食らってしまう。

「なあなまえ、俺今、すごく苦しいんだ」
「うんわかるよ。すごい荒いもん」
「息が整わなくてさ……脳みそがはち切れそうな感覚だ」
「爆音でずっと曲聴いてるのもあると思うよ」
「ッあ"あ、はぁ、あんな…楽しい対局、始めてだったんだ…」
「それはよかったね」

一応会話にはなってるけど、どうせ右角には聞こえてないんだろうし噛み合ってはないんだよなあ。恍惚とした表情を浮かべる右角をただじっと見つめる。そんな私に右角も負けじと見つめ返してきて、お互いの視線が絡み合った。まるでB級映画のワンシーンみたいだ。

「あ…そうだなまえに言わなきゃならないことがあるんだ」
「何?」
「俺な、地下、抜けるから」
「…そっか。やっぱり何か凄いものに出会ったんだね」

にっこり、というよりはにやりと口角を上げる右角はすごく嬉しそうで思わず吹き出してしまう。何故かはわからないけど、どこかいやらしさすら感じるその笑顔がツボに入ってしまってくつくつ笑っていたら首筋にがりっと歯を立てられた。鋭い痛みに反射的に痛い!と叫ぶと心底楽しいというような声色で右角が笑った。

「何笑ってんだバカ」
「いた、ほんとすごい痛い!やめっ…」

執拗に私の首を噛み、舐める右角の息は相変わらず荒いままだ。けれど先ほど虚ろだと思っていた眼はなんというか生気が漲っているというか…とにかくぎらついていて心なしか熱っぽい。まさかこいつ、サカってやがるのか。

「興奮が冷めやらないっていうのか、何だ…とりあえず、ヤることヤっとこう」
「なっ!?」
「この部屋とも永久にオサラバかもしれないしな」
「ちょっ、え?ななな何コレ右角太ももに何か!かたいものが!当たってる!」
「あ?何か言ったか?聴こえン」
「イヤホン外してお願いだから!」

音漏れしているリズムが心臓の音が共鳴しているような感覚に陥る。それほどに心臓の動きは激しいし、音漏れは大きい。やけに速い鼓動を右角に聞かれる心配はないにせよ…この状態の右角はきっと…行為中もうるさいに違いない。今日ほど静かな亡者達を恨むことはないな。
耳元で荒い熱い息とともに「愛してるぞなまえ」と囁いてくる右角は、やはり野獣そのものであった。