ふつふつ、ことこと。
目の前の今にも沸騰しふきでそうな鍋をぼーっと見つめる。手をいくら伸ばしてもぎりぎりコンロのスイッチには届かなくて、ふう、と一つため息をついた。私の動きを制限しているのは腹にぐるりと回された腕で、その腕は到底女の私では破れないのだろう、と思う。私の肩に触れる長い髪や、細長く白い指はまるで女の人のようなのに。

「氷村さん」
「何?」
「鍋吹きこぼれちゃうので離してください」
「…ヤダ」

後頭部に氷村さんの頭が押し付けられたのがわかった。先ほどから氷村さんの言葉に陰りが感じられているのもあり、茶化すような気持ちを込めて「どうしたんですかとんだ駄々っ子じゃないですか」と声をかけた。しかし肯定、否定、反論、何の言葉も帰って来ない。普段は飄々としていたり一枚上手な余裕ありますといった返しをしてくるのに…なんだか調子が狂ってしまう。
頭を傾け何とか氷村さんの表情を伺おうとすると、頬に綺麗な茶色の髪が触れた。

「(この色…あの時、出会った時から変わらないんだな)」

私の低い語彙力では上手く表現することが出来ないけれど、いつだったか千鳥さんが煽るように飲んでいたバーボンのような、橋さんに頂いた紅茶のような、さらさら流れる光を反射して輝く深い琥珀色。突然私の世界を侵蝕したその色は今この瞬間も変わらない。
よくよく氷村さんと一緒にいたときのことを思い返してみると、氷村さんのアクションはいつも唐突で、今のこのおかしな状態もまあしょうがないのかもしれないと思ってしまった。

「とりあえず火消させて貰えませんか」
「……」
「何で無言なんですかっ」
「一瞬も、離したくないから」
「えっ?」
「俺から離れないでほしい」

一体、どうしたんですか。
まさか彼がそんなことを言うだなんて、という驚きのせいでそれは声にならずに消えて行った。基本的には私たちのあいだに直接的な愛の言葉というものは今まで殆どなく、そのあまりにもストレートな表現に反射的にびくついてしまう。

「ななななななっ、なんで急にそんな!」
「…俺たちの死の近さを実感しちゃったからかな」

腕の力が一瞬緩まり、身体を氷村さんのほうへ向けられる。視界に映るのは不安げな瞳と、それでも必死に普段と同じように振舞おうとしているかのような少しだけ端が上げられた口。その表情になんだか氷村さんが消えてしまうんじゃないだろうかという錯覚さえ覚えた。
確かに私たちはお互い死の近さが一般人よりは目視できるだろうし、何度もその恐怖を氷村さんは味わっているはずだ。なのになぜ急に今、ここまでそれに怯えているのだろうか?氷村さんの陰りと同調するかのように、弱まったと思った腕に込められた力も、背中を抱きすくめられているうちにじわじわと強くなっていく。

「こんなに弱るなんて馬鹿みたいだ…」

自嘲ぎみな氷村さんの声色に無性に悲しくなってしまう。一体、氷村さんは何を見たのだろうか。何を感じたのだろうか。何故こんなにも恐怖するのか……私には全く見当がつかなくてそれがひどく歯がゆい。ただ、さっきの氷村さんの願いには応えることができる。

「大丈夫です。私は氷村さんから離れません」

氷村さんの背中へ私も腕を回し精一杯の力を込めて抱きしめると、あのいつも変わらない琥珀色がふわりと揺れたのがわかった。
背後でじゅわわっと音がする。きっと鍋が吹きこぼれてしまったのだろう。…まあ、いい。後で二人で掃除すればいいのだから。

「……ありがとう」

ゆっくりと重ねられる唇に、今はただ、身を任せてしまおう。