ぐえ、そんなひき蛙が潰れるような呻き声と拳と肉がぶつかり合う音がひびく。
いかにもヤのつく人が道路の脇に置かれていたポリバケツごと吹っ飛ばされたと同時に野次馬はさーっと離れて行ってしまって、今立っているのは私とこの厄介ごとを持ってきた張本人だけになってしまった。
なんだか私も関係者みたいに見えるんじゃないか、と考えて眉間に皺が寄る。正直関わりたくないんだけどと思いながらもこちらをじっと見つめてくる澄野さんに声をかけた。

「…また喧嘩ですか」
「喧嘩じゃなくて正当防衛だ」
「いつも言いますけど正当防衛どころの話じゃないですよ、相手もうぼろぼろじゃないですか」
「最初に刃物を取り出した向こうが悪い。これで妥当だろ」

意識を飛ばしていたり痛みで身動きが取れない状態の人の懐から財布を取り出してお金を集めて行く手つきが慣れすぎていて正直怖い。
この澄野久摩という男はなんというか、暴君という言葉がよく似合う。ふらりと現れたかと思ったら急にファミレスに引っ張っていかれて将棋を指すことになっていたり、毎日のように喧嘩の現場に出くわしたり…自分でもなんだかよくわからないうちに面倒ごとに巻き込まれて、いつも何故かそれが当然であるかのような台詞を言われる。

「ていうかなんでいっつも私が澄野さんの喧嘩だとか厄介ごとに巻き込まれなきゃならないんですか…」
「そこにお前がいるからだ」
「いやいつも思うんですけど何なんですかそれ」
「気にするな」
「気にしますよ!」

正直なところ、澄野さんと出会った日から私の日常は崩れたと思う。あきらかにおかしいところに片足を突っ込んでいる。澄野さんがぶっ飛ばした相手に追いかけ回されたり、なんだかよくわからない人につけられたこともあるし、刃物を突きつけられたことだってあった。今日は一応正当防衛らしいからまだいいけれど、澄野さんはなんの理由もなく相手を殴ることがあるからその現場に居合わせてしまったりすると本当に最悪で私まで恨まれたりするのだ。
最近では友人に「ねえこの前一緒に歩いてた着物の人って彼氏?」だなんて言われたし。心外な。今でもこんなにトラブルに巻き込まれているというのに澄野さんが彼氏になったりしたら絶対に死んでしまう。正直ご遠慮願いたい。

「行くぞ」
「えっ、嫌です私洗濯物取り込まなくちゃならないので帰ります」
「つべこべ言わずに来い」
「ええええ」

澄野さんが行こうとする方の反対方向へかけ出したがすぐに捕まってしまい、服の襟を掴まれてぐいっと引っ張られ息がつまってしまう。くるしいです、と呻き声を上げたら離してもらえたけどまた逃げようとしたら今度は手のひらを絡め取られてしまった。ぎゅうっと握られた手は所詮恋人繋ぎというやつで、少し、ほんの少しだけ心臓が跳ねる。またこんな現場を知り合いに見られてしまったら死ぬほど恥ずかしいことになってしまうだろうけど、今ここで再度逃げようとしたり反抗したほうが目も当てられないことになるのは必至だ。まあ澄野さんは私を逃がすまいとしてやっているだけだろうから、そう自分に言い聞かせて「しょうがないですね」なんて呟きながら澄野さんの手を握り返した。おとなしく従ったほうが澄野さんも早く帰らせてくれるだろうし。

「……?澄野、さん?」

澄野さんが一向に歩き出さない。いつもなら先々進むか私を引きずるか、とりあえずどんどん歩いて行くというのにうんともすんとも言わなくて…逆に怖い。何か嫌なものでも見てしまったのか、知り合いでもいたのか、それとも、と思考を巡らせてみたが澄野さんが派手に暴れていたせいで人は全くいないし、顔を見ようとするとぐっと逸らされてしまってどんな表情なのかが把握できず余計にもやもやする。常に感情に身を任せて行動しているような澄野さんだからある程度何を思っているかが分かるのだけれど、だからこそ感情が全く読めないなんて今まで経験したことがなくて、何を言ったらいいのかわからなくなってしまった。
とりあえずこのお互い無言で微妙な空気なのをどうにかしたい。ていうかさっきから手繋ぎっぱなしなのは何故。

「ええっとぉ…そのー…っ澄野さん!」
「……何だ」
「なんか、こういう風に手繋ぐのって恋人みたいですよねー…ハハ…」

次の瞬間ぐりん、と首がもげるんじゃないかってくらいすごい勢いで澄野さんがこっちを向いた。それがあまりにも人間離れしていたせいで反射的に「ごめんなさいごめんなさい私なんかが恋人とか言ってごめんなさい!」と叫びそうになったけれど、目の前の澄野さんにさらにびっくりしてしまって言葉が出ない。心臓は驚愕でばっくんばっくん言っていてもやけに頭は冷静で、ちょ、あんたそんな顔できたんですか。そんなことを考える余裕さえあった。

「すみのさん、かおまっか…」

澄野さんは頬だけでなく耳まで赤く染まって、口をぎゅっとつぐんでいて。繋がれた手はじわりじわりとあつくなってきていてこちらにまで熱が移ってきそうだ。

「あのっ、さっきのは気にしないでください…!」
「さっきのって何だ」
「こここ恋人みたいですねっ…て、」
「気にする」
「えっ」

ぼそっと澄野さんが噛みしめるように言ったのが聞こえて、私の顔もかああっとあつくなる。
澄野さんって私のこと好きなんですか。
思わず口から零れてしまったその言葉への返事はない。しかし澄野さんの無言は大体が肯定であって、それはつまり。
澄野さんと恋人だなんてまっぴらごめんです!命がいくつあっても足りやしません!そう叫ぼうとしたけれど、私の手を覆う澄野さんの手にどきどきしてしまって喉がきゅうんと渇いた。澄野さんが、私のことを、

「わっ私帰ります!」

脳みそがパンクしそうだ。さっきまで迷惑だなあとしか思っていなかったのに、澄野さんが私のことを好きだなんて知ってしまえば、迷惑以外の感情を抱かざるを得ない。何が何だか分からなくてとにかく逃げ出そうと思った、けれど、腕を強い力で絡め取られてしまって動けなくなる。ぐっと身体を引かれてお互い顔を見合わせる状態になった。心臓が大袈裟に跳ねて顔に熱が集中してくるのがわかる。顔が、近い。

「離してくださいっ…」
「逃げるな」
「や、」
「…好きだ」

澄野さんのまつ毛が瞳に触れそうなほどに距離が縮められて、熱と渇いた少し柔らかな感触が唇に伝わった。肌と肌が吸い付いてどろどろにとろけあって、一つに混ざり合ってしまうようなそんな感覚が駆け抜けて、背中が粟立って膝の力が抜けていってしまう。すると自然と澄野さんに身体を支えられるかたちになってしまうわけで、澄野さんの腕は私の腰当たりに回されて抱きしめられる状態になった。
ふっと手のひらから熱が去ったことによって思考がはっきりとする。掴まれていた腕が自由になった瞬間反射的に澄野さんの頬に全力で平手打ちをかました。

「澄野さんの馬鹿っ!」

全力で手を振り払って走り出す。なんなのこれ、あの澄野さんにこんなにどきどきするなんて、そんな。ありえない。澄野さんなんてただの知り合いなんだから。そんなことをぶつぶつ呟いているとさっきの感触を思い出してしまって余計に顔が熱くなっていく。
もう絶対に澄野さんとは顔を合わせるもんか!と高らかに叫んだけれど…
どうせ、また明日には澄野さんのもってくる厄介ごとに巻き込まれてしまうんだろうな。