俺は縋り付くことしか出来ないから


「………っ」


学校から帰ってきて、今俺は家の扉の前にいる。ドアノブに手を掛けようとするが、躊躇ってしまう自分がいた。
あの頃は、兄弟で仲良くやってたあの頃は、この扉を開ける事がとても楽しかったと思う。
嗚呼、帰ってきたんだと、実感出来ていたのに。最近は、この扉を開けるのが怖い。
中に入ったら、大好きな兄さんに拒絶されるのが、恐ろしくてたまらなかった。
でも俺は進まなくちゃいけないんだと、怖くても立ち止まってはいけないんだと教えてもらったから。だから、


「……っただいま…」

「…耀泰……」


玄関には、出掛けるのか荷物を持って立ち尽くしている兄さんがいた。
俺は、驚いて兄さんを見つめる。兄さんも、驚いて俺を見つめている。
重い沈黙に耐えきれなくて、音を紡いだ俺の言葉を遮ったのは兄さんだった。


「にいさ…」

「お帰り、耀泰」

「………!!」


最近は全く見ていなかった、兄さんの優しい微笑みが見えて、俺は嬉しくて涙が出た。


「っ……ふ…ッ…」

「耀泰…?」

「兄さ…は、俺の事、嫌いになった…て思ってた…っ!」


大好きだと思った。だから嫌われてしまうのがこんなにも辛いんだって。
"俺は兄さんが好きなんだ"
止めどなく溢れる涙を止める術を俺は知らなかった。


「………すまない、」

「兄さ……」

「すまない、すまなかった……」


抱き締めてくれた、キツく、優しく。大好きな兄さんはいつでも優しくて、強くて、格好良かった。
久し振りに感じる、大好きな人の温もり。俺は嬉しくてまた涙が溢れる。


「兄さんっ…兄さん…!!」

「耀泰、大丈夫だ……落ち着け」

「だって……兄さ、いなくなる…!」

「……耀泰、」


泣き崩れる俺の体を抱き止める兄さんの目は、何かを嘆くような憂いを含んだ色をしてた。




重い瞼を開けると、真っ白い天井が目に入る。理解するのに時間は掛からなかった、ここは兄さんの部屋だ。
気だるい体を起こすと、丁度兄さんが部屋に入ってきた所だった。


「あ、兄さ……えと、その…」

「いい、大丈夫か?」

「………!」


嬉しそうに微笑む兄さんになんだか俺まで嬉しくなって、俺は思わず兄さんに抱きついた。


「兄さん!!」

「…っ!?」


勢い余って俺が床に押し倒してしまう形になって、思った以上に兄さんの顔が真っ赤だった事に驚いた。


「兄さん…?」

「っ……耀泰、お前無自覚にも程があるんじゃないのか…?」

「え?」


上半身だけ起こす兄さんは、真っ直ぐに俺を見据えた。今の状態はハッキリ言って、色んな意味でヤバい。
兄さんに馬乗りになる俺の服装はダボダボのジーンズにはだけたワイシャツ。
どうしよう、純粋にそう思った。だって兄さんは俺の事…


「耀泰……」

「っ!」


それは不意打ちのキスだった。まるで溶けてしまう様な、強くて情熱的な口付け。甘い痺れで体に力が入らなくなって、必死に兄さんの腕にしがみつく。
熱くて、苦しくて、恥ずかしくて、息が出来なくなった。俺の震える手を握る兄さんの手も、とても熱かった気がする。


「ふ…ッ兄さ…」

「…耀泰……、耀泰…愛してる」

「……っ」


答えられなかったんだ、だって俺はまだ、大好きな兄さんと、大好きなあの人を天秤に掛けていたんだから。
好きだと言ってくれる兄さんを失うのが怖いくせに、いつまで経ってもあの人の事が諦めきれない。
そんな自分が惨めで仕方なかった。

でも今、兄さんと恋人同士の様な事をしていても、俺は


「兄さ、ん……俺」

「……俺が帰ってきた時に、返事を聞かせてくれないか………」


悲しそうに俺の頬に手を伸ばす兄さんは、また俺に口付けた。さっきとは違った、優しいキス。
その行為がまた、兄さんに対するよくわからない罪悪感で俺を苦しめた。


「……愛してる」

「っ……」


これ以上、俺にどうしろって言うの?大好きだから、傷付けたくないのに。




その日は、雨が降りそうな曇り空だった。そんな夜に傘をさしながら歩く青年がいた。


「…あーあ、何やってんのかな俺…」


ぼそぼそと呟く彼は、どこか上の空で後ろから近付いてくる大柄の"彼"に気が付かなかった。


「時雨」

「うぁおおあっ!!?」

「…久しぶりやね」


時雨に声を掛けたのは、煙草を吸いながら流暢な関西弁を話す西城高校の制服を着た彼だった。
鬱陶しそうに彼の吸う煙草の煙をぱたぱたと叩くと、時雨は眉を潜めて彼を睨み付ける。


「何の用、深緋?」

「そんな言い方ないんちゃう?冷たくなったなァ時雨」


深緋(コキヒ)と呼ばれた彼は、時雨の棘のある言葉に肩を落とした。
それでも尚早く用件を言えとばかりに睨み付ける時雨に、やれやれと肩を落とした深緋は淡々と話を進めた。


「時雨、お前の大切な姫さんやけどなぁ……守れないんよ、俺では無理なんや」

「…何だって?」


驚いたように勢いよく深緋の顔を見上げる時雨に、バツが悪そうな顔をして目を逸らす彼の視線の先には灰色の雲が横たわっていた。


「裏で糸引いてる奴が思うてた以上にデカすぎてなぁ…すまんなぁ許したって」

「…俺との契約、忘れたつもりなの?君、随分薄情になったね」

「まさか!時雨に受けた恩は忘れてへんよ、だから俺が出来るんはあん姫さんの護衛くらいなんやて」


時雨の前で手を合わせて、この通り!と言う深緋に呆れたように溜息を付く時雨に彼は困った様な笑みを浮かべていた。


「……まぁ、俺は彼に何も無ければそれでいいから」

「何や、妬けるなぁそん姫さん…」


ホンマ羨ましいわ、と言って煙草を投げ捨てる深緋に時雨は睨みを利かせる。
苦笑して吸い殻を拾う彼に、時雨は一瞬優しい色をした瞳を向け、すぐにいつもの表情に戻っていた。


「…………じゃあさっさと仕事に戻りなよ、千歳」

「ホンマか!そん名前で呼んでもらうんは久々やね」

「今日だけだよ」


彼と別れた後、時雨の瞳に写ったのは空から降り注ぐ大粒の涙。
さしていた傘にあたるその涙の音が、今の彼の耳には心地よかった。


「ねぇ千歳、俺はね…俺は、彼さえ無事だったらそれでいいんだ。そうでしょ、なーくん」


それぞれの思いを写した空は、どんよりとした灰色の雲が覆っていた。




てのなるほうへ

(好きだと言ってくれたあなたに手を伸ばした俺はやっぱり臆病者だった)

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