もう涙は枯れた


目の前には、炎上する自分の車と、衝突したであろうもう一方の大破した車。その車の中から覗く、原型を留めていない血まみれの塊。それを見つめる私の腕の中には、愛する妻の躰。愛しい命は、私が助け出した頃にはもう絶えていた。


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『李賢さん、御飯ですよ』

「……瑞季…」


愛すべき妻、瑞季と。


『父さん!おはよう!!』

「おはよう要…」


まだ中学一年の娘、要。


『父さん!今日は久しぶりに家族で出掛けるんでしょ?アタシ映画見たいなー』

「…たまにはそういうのもいいな」

『あら、李賢さんはいつも人混みは嫌いだって言うのに要には甘いんだから』


朝、日が差し込むリビングでそんな他愛のない話をしていた。今日は休日。私達は久しぶりに家族で出掛ける予定を立てていた。私は幸せだった。彼女達といられることが私にとって一番の喜びだった。


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「そろそろ時間だな」

『えっも、もう行くの?服、可笑しくないわよね?』


部屋で準備をしていた私と瑞季。外出する事に慣れていない彼女は、まるでデートに行く若い女性を彷彿とさせた。


「大丈夫だ、似合ってる」


そう言って安心させる為に微笑み、彼女の髪を撫でた。すると彼女は嬉しそうに目を閉じる。私はそんな彼女の唇に自らのそれを押し当てた。頬を染める彼女はいつも以上に愛らしく、思わず私は抱きしめた。
嗚呼私は幸せだ、何度そう思っただろう。


『あ、李賢さん…要が来ちゃう』

「いい…」


顔を林檎のように真っ赤にして初々しい反応をする瑞季に、私はまた口付けを落とした。消えてしまわないように、


──────────


『行こう父さん!』

『もう要、そんなに急かさなくても良いでしょう?』


笑い合う二人を見て、思わず私も笑みが零れた。幸せな家庭。仲の良い妻と娘。慕われているこの感覚。ずっと続く思っていた。


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一瞬、何が起きたのか分からなかった。躰に感じた鈍い衝撃と、左目に走る強烈な痛みに私は顔をしかめた。
あたりは煙で覆われていて、上手く息が出来なかった。辛うじて開く右目で周りを確認しようとすると、視界の端に愛しい妻の血まみれの腕が飛び込んできた。


「瑞季……!?」

『り、け…さん……』


絞り出すように声を出す妻に私は慌てて手を伸ばした。
落ち着かせる為に彼女の手を握り、要を探す為に私はまた周りを見渡した。確か要は助手席に乗っていた筈、そう思い助手席だったであろう場所に目を向けた……そこにあったものに私は絶句した。


『李、賢…さん…かなめ…は?』

「……っ」


心配そうに問う彼女に、私は答える事が出来なかった。我が子の姿は、もう殆ど原型を留めてはいなかったのだから。苦し紛れに、瑞季に大丈夫だと言った私は静かに涙を流していた。
要はもう助からない。だからせめて、瑞季だけでも。そんな黒い感情が私を支配していた。兎に角、瑞季を助ける事に精一杯だった。


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助け出した彼女を腕の中に納め、私は涙を流した。何故!どうして!!車から出た私は、救急車を呼ぼうと携帯を取り出したが先程の衝撃で壊れてしまっていた。


「…瑞季……」

『李賢…さ……私、凄く…眠いわ…』


次第に目が虚ろになってゆく彼女を、私はどうすることも出来なかった。己の無力さを私は嫌でも知った、そして涙を流すしか出来なかった私は悔しさで可笑しくなりそうになる心を、無理矢理押し込める為に思い切り拳を握りしめ唇を噛んだ。


「瑞季……瑞季、…っ!」

『ね、李賢…さん……愛して…』


段々息が上がっていく彼女は瞳に涙を溜めながら、その瞳はぼんやりと空を写していた。
力が入らない手で私の頬に懸命に触れようとする彼女を見ているのが辛かった。私は彼女の手を掴み自らの頬にあてた。………思っていた以上に冷たかった彼女の手に、私は顔から血の気が引いていったのが分かった。


「嗚呼…愛してる、瑞季…瑞季…!」

『私、も…私も愛し……李賢…さ、ん……だから……泣か、ないで……?』


彼女は、とても綺麗に微笑む。そして彼女の腕は、糸がプツリと切れたように力無く崩れ落ちた。
その時私は初めて、声が枯れるくらいに泣き叫んだ。



この世界の
残酷さを知る

(もう、こんな世界なんて無くなってしまえばいいんだ)

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暁 李賢。
過去、死ネタです。





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