代わる情緒的な何か

十九時五分前の空は明度を絞り始めている。冷たい霧の目にみえる湿気のせいで、物体の輪郭や影の濃度を限りなく淡くにじませている。どこかのオルガンや歌声が、あくまでも練習的な音色でかすかに錆兎の耳に届く。シャツが若干の重みをもって、錆兎の肌にぺたりと張り付いている感覚があった。彼は腕時計で時刻を確認してから、正面の、目線とほぼ同じ高さに有る表札に彫られた名のかたちを確認した。何度も訪れている場とはいえ、錆兎は必ずそれをしてからインターフォンに指を当てた。彼女の部屋の香りを思い出してしまっている事に気が付きながら、ボタンを押し込んだ。大きく息を吸うと、肺の中が霧で重くなったので、すぐに吐き出した。

インターフォンの応答を待つあいだ、錆兎は右側の肩にかけていた二本のショルダーストラップをいちど掛けなおし、カバンの中の教材の重みを確かめる。毎週木曜日のこの時間から六十分ほど、錆兎は名字名前の自宅に出向き、家庭教師として彼女の学習を補助する。前回の講習の時間に数学のサポートを頼まれたので、錆兎が実際に高校時代に使用した参考書を持参していた。使い込んだそれは教える側の補助にも役立つはずだ。指導は時間内で円滑に分かりやすく行われなければならない。

「錆兎せんせいって」
「!」
「インターフォンを親指で押すんだね」
「…名前、」
「驚いた?」
「ああ、…見ていないで声を掛けてくれよ」
「ふふ、ごめんね」

語尾を上げ、楽しそうに謝る名前の笑顔は年の割に子供っぽい。彼女は常に見る学校の制服姿ではなく、深いブルーのコートを身に纏っていた。この日が落ちた暗がりの霧の中では、すこしの距離をとっただけで湿気の淡さと溶け込んで、彼女の所在がすっかり分からなくなってしまうような色味だと思った。普段結んでいる髪も珍しく下ろされている。唇に乗っている赤みが普段より濃いので、錆兎は心配になった。家の外で彼女の姿を見る事が初めてなせいもあるかもしれなかった。毎週決まった一時間しか顔を合わせない彼女には、錆兎の知らぬ日常という面が溢れるほど存在しているというのは当たり前だ。名前はいつまでも笑っている。

「どこか、出かけていたのか」
「ううん、違うよ。せんせいを待ってた」

教師と生徒という間柄だが全く友達に向けたような言葉を遣う名前に対し、錆兎は不快に思わない。敬語で装飾されないおかげでのせられる、柔らかなイントネーションが錆兎は初めから好きでいる。名前は持っている、丸めた画用紙を胸の辺りで持ち直した。

「きょうはやっぱり、数学じゃなくて、違う教科教えてもらおうと思って」
「違う教科?…来週は数学の模試があるんじゃなかったのか」
「うん。でもそれよりも優先。明日までの宿題なの」
「宿題?」
「そう」
「一体何の」
「古典と、それから美術。絵を描くの」
「……」
「なに?」
「名前...。悪いが、たぶん俺が美術について教えてやれることはない。絵心が無いんだ」
「ええー」
「笑うな」
「せんせい、大学卒業したら学校の先生になるんでしょ?なんでも得意にしておかなきゃ」
「美術はふつう、専任が居るんだ。俺は専門外だ」
「言い訳」
「言い訳じゃない」
「困った先生だなあ」
「困っているのは俺だ」

錆兎の口から溜息が漏れてしまう前に、名前は彼の手を攫って歩き始めた。「今日は部屋じゃなくてこっち」少し先をゆく彼女の弾んだ声と共に、錆兎はコートの袖から伸びているなめらかな肌を見た。霧の青みがかったもやが、彼女の血色をおとして更に白いものに魅せている。互いのてのひらは彼女の意思によって繋がっていた。錆兎がゆっくりと握り返しても、名前は変わらぬ足取りで少し前を歩き続けている。霧は思ったよりも濃かった。コンクリートで舗装された道路に等間隔で並んだ街灯は、道路ではなくその白い靄を照らしているみたいにぼんやりと頼りなかった。彼女は一体どこへ向かっているのかと、錆兎は思案した。握っている薄い手の温度に意識を向けすぎてしまうと、自身が深い沼に足先から喰われてゆく感覚が生まれて、どきどきする。途中で名前が独り言のように、「錆兎せんせいは絵心が無い」と呟き、その肩が可笑しさによって震えているのが分かったので反抗として次は彼女の手をしっかりと握った。目に見えて驚かれたり離されることはなかったが、髪の間から覗く耳の先に温度のある色味を発見した錆兎は、可愛らしいと心に思った。ぴたりとくっつき合った肌は、互いを同じ温度に温める。

暫く歩くと、スニーカーの底が土を踏んだ。案内され行き着いた場所は近所の公園だ。
さほど広くはない敷地には、鉄のレールでできている簡素な迷路とバスケットゴールが設置されている。端の方にはタイヤをチェーンで吊るしたブランコのようなものがあった。この時間と空模様が相まって、公園内に人影は見当たらなかった。錆兎はベンチに先に座っていた、薄い湿気を手で払った。名前が端に腰を掛けたので、そのまま隣に並んだ。辺りは不気味なまでにしんと静まり返っている。霧は物音までも吸い取ってしまう。ベンチの塗装は随分と錆びていて、重みのある赤茶色をしていた。豊かなぶどうを発酵させて作った赤ワインのような、茹でる前のつやつやと腫れた小豆のような、あるいはどこかの小説を飾る背景のように、今ふたりを乗せている。錆兎の腕に巻かれた時計の秒針は同じところをぐるぐると回っていた。名前は錆兎の瞳を覗き込んだ後、霧でのどを潤してから詩を読んだ。冒頭の一節は有名で、錆兎は北栄の詩人、蘇軾の『春夜』であることを理解した。

春 宵 一 刻 値 千 金
花 有 清 香 月 有 陰
歌 管 楼 台 声 細 細
鞦 韆 院 落 夜 沈 沈

高校時代に教師の朗読を聞いたことのある錆兎にとって、彼女の読み方は、まるで頭の中に暗記された記号を音声としてなぞっただけの棒読みだ。

「これ、明日までの宿題」

言いながら彼女は丸められた画用紙を広げてみせた。真っ白なあたらしいそれは、霧に晒されて角の方がたよりなく曲がっている。「蘇軾の詠んだ詩を、自分の解釈で画に起こすっていう課題なの」名前は片手をベンチにつき、頭上を見上げた。「どうしろって言うんだろう」二人の上を覆うように伸びている木の枝は、葉などとうに地に落ちて、すっかり晒されてしまっている。花たちを枝にのせて撓むようなことは無い。「だって今は、秋の終わりなのに」溜息を漏らす彼女を横目に錆兎は笑った。確かに彼女が今読み上げた詩の舞台が春なのは明らかだ。

「頭が固いな」

名前はむっと下唇を噛んで錆兎に顔を向ける。

「だから錆兎せんせいに相談しているんだよ」
「ああ。アドバイス位なら、してやれるかもと思ってきたところだ」
「せんせいだったらどんな風に描く?…一応意味は授業で習ったから分かるんだけど、今はどっちかというと秋夜でしょ?」
「そうだな」
「花だって…この公園には何も咲いてない。見てよ、地面に落ちてるたくさんの松ぼっくり」
「ああ」
「なんで笑ってるの」
「すまない、真面目に考えているんだと思うと可愛くてな」
「…………」
「何も、見えるものだけを描かなくたっていいんだ」
「どういうこと」
「課題は自分の解釈で、という事なんだろ?蘇軾の見た風景をそのまま再現しようとしなくていい」
「…何言ってるか全然分からないよ」
「名前の春夜を描けってことだ」
「私のって」
「今ここに期待する花や四季が無いんだったら、代わるものを自分なりに探すしかない」
「代わるもの。春の夜に値するような情趣的ななにか?」
「そういうことになる」
「…なんでそういう難しい課題を、先生は出してくるわけ?」
「はは、そう怒るな」
「だって。かなり面倒」
「俺はなかなか良い課題だと思うが…、確かに、高校時代にそれを出されたら煩わしく思ったかもしれない」
「加えてせんせい、絵心無いしね」
「しつこいな、俺の絵見た事無いだろ」
「じゃあ今度描いてくれる?」
「断る」

名前は気抜けしたようにちいさく肩をおとして錆兎にみせた後、指先を耳元に持って行き、そこから短い一本の鉛筆を取り出した。彼女の耳に鉛筆が挿されていた事に全く気が付かなかった錆兎はその様子に不意をつかされながら、いまにも画用紙に触れ、黒鉛をそっと落として行きそうな鉛筆のさきを見つめる。彼女の黒い瞳がほんのわずかな時間錆兎に向けられたことを、彼は見逃さなかった。

「なにか良い案が浮かんだのか」
「たぶん、見つけたと思う、けどせんせいはむこうを向いててね」

「見られてると、緊張して描けない」

名前はわずかな距離、ベンチの端に移動した。彼女がそう言うのだからと、錆兎は真面目に名前を視界の範囲外に置き去りにする。屈み、膝に頬杖をつきながら錆兎は鉛筆の芯が画用紙に擦れる音を感じ、地面に転がっている松笠を見た。こんなに沢山の数が松の木から落ちたというのに、その瞬間は見た事がないとおもった。つめたい冷気はつねに肌に纏わりついている。とおくに秒針の規則的な音を聞いて、自身の腕に巻かれた時計に気を向けた。時刻はとうに二十時を過ぎていた。まだ十五分も立っていない体感であった錆兎は意外に思う。どこの場面で時間を大きく使っていたのだろう。仕事としての時間が終わった事を静思し、それから今日に限ってはまったく、家庭教師としての職務がこなされていないと内省した。だからもう少し彼女に付き合おうという訳ではない。現在は錆兎の私的な時間と言っていい。錆兎が好きなように行動の選択をしてよいのだ。それでも彼女との関係がどういった理由の元で成り立っているのかという前提についてを忘れてはならない筈だが。

「なあ、名前」

確かに自身の隣に居る彼女の名前を呼んだ。視線は未だ正面のさきの、松笠のひらいた黄金比を眺めたままでいた。己の声の表情に含まれすぎた好意はきっと彼女からしても明らかだろう。ただの生徒をそんなふうに熱っぽくは呼ばない。なのに、だからといって良いかもしれない、名前からの返答は無かった。筆が走る音は消えていた。錆兎は今の一言を、独り言として己の中に消化するのには無理があった。好きなのだ。たぶんじゃなく絶対に。欲が通ることを許されるとその次を望んでしまうのは、前回、帰り際に名前と沈黙のなかの視線の交わりがあったせいだ。自分の熱量がただ彼女のきらきらしい瞳に反射していただけかもしれないというのに、盲目的なこころ構えが結果をそう見せているだけかもしれないというのに。静かな互いの沈黙のあいだに、錆兎の心音は大きく鳴っていた。顎に添えていた手を放し、名前を視界に捉えた。画用紙と鉛筆を膝の上に手放してしまっている彼女の、すこし驚きを見せてまるくなった瞳と深く交わった。やさしく細められて、変化はきっと錆兎にしか感じ取れない。分針がひとつの点を飛んだ。

「先週もこんなふうに、したよね」
「覚えているんだな」
「錆兎は、忘れてた?」
「忘れるわけない」
「私も。忘れられなくって、いま、あの時と同じだなっておもって、言ってみたんだ」

名前に手を伸ばして良いものか迷っていると、それはいっときはやく彼女のほうから実行された。だが錆兎に直接触れるような事は無く、手には画用紙が握られている。

「私の解釈で」

受け取って、名前の白く冷えた両頬に春を象徴するさくらの色を見つけ、美しさはこんなにも零れるようにひとに纏うのかと錆兎はおもう。画用紙に目を落とせば、淡い黒鉛のいろが紙の上で濃淡を描いて、間違いなくそれは錆兎の横顔として描きだされている。実体より幾分かやさしい雰囲気の横顔は、部屋の机で錆兎の教えを聞きながらノートへ鉛筆を走らせているときの彼女のようにも見える。錆兎は遠くを見つめる絵の横顔が、なにを意識していたかを知っている。彼女の描いた春夜。





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