助けて、秘密のハァトブレイク

カツカツと黒のピンヒールを鳴らしながら、地下へと続く階段を降りる。煉瓦調の壁に囲まれた店の入口は、いつもより空気がひやりとしている気がした。夕刻からしとしとと降り続いている雨のせいかもしれない。重たい鉄製の扉を引いて開けると、ダウンライトの店内で一際輝きを放つ天元さんの銀髪が目に入った。

「いらっしゃいませ……って、なんだお前か」
「……ううう、天元さぁん」
「はいはい、今日はどうしたよ」

バーカウンターの中でグラスを拭いていた彼は顔を上げ、私の姿を視界に捕えて少し呆れたように笑う。彼の前まで歩みを進めた私は、そそくさとスツールを引いてカウンターに座った。
自分の住む最寄り駅から自宅までの道中にあるこのバーを見つけたのは、かれこれ半年以上前の事だったか。雰囲気も立地も良いこの店に、気付けば私は週に1度は顔を出している。ビルの地下にある隠れ家のようなこのショットバーは、クラシックで用いられる音楽記号を店名に冠していた。
店のオーナーである目の前の銀髪の男、宇髄天元は若いながらも腕の確かなバーテンダーだ。背も高くさらに見目も麗しいという彼に一目会いたいと、多くの女性ファンが通う知る人ぞ知る店。ここがそんな場所だと知ったのは、店に通い始めてから1、2ヶ月ほど経った後だったと思う。

「…この時間にお客さんがいないの、珍しいですね」
「月曜だし天気も悪いしな。まだ雨、結構降ってるか?」
「うん、そこまで酷くはないけど」

いつものこの時間であれば、天元さんをテーブル席から遠巻きに眺める女性客や、彼の知り合いの男性客がカウンターに並んでいたりする。まだ終電までにはだいぶ時間がある頃合だったけれど、今日落ち着いた雰囲気のこの店内にいるのは私と彼の2人だけだ。
生ビールの注文の後で、天元さんもどうぞ、と私は一言付け加える。お、ありがと、と返事をくれた彼は、2個目の冷えたグラスを器用に冷蔵庫から取り出した。


「んで、今日は何があった?」
「……られた」
「あ?」
「………彼氏に、振られました」

ちん、と音を立てて乾杯し、一気にお酒を流し込む。1/3ほど空いたグラスを置いて、私は天元さんの質問に答えた。あ、ダメだ。またちょっと涙出そう。
天元さんは少しだけ眉を下げて、やっぱりな、と言う表情をした。元々1年以上付き合っていた彼氏とは、最近何かと衝突が絶えなくて。その度にこうして私はこの店で、彼に愚痴や相談を聞いてもらっていたのだ。

「……前、デートで喧嘩したって話したじゃないですか」
「…あぁ、言ってたな」
「今日、仲直りしようと思って、2人でご飯食べに行ったんです、」
「うん、」
「そしたら、また喧嘩っぽくなっちゃって、」
「、うん」
「っ、お前の、そのうるさいとこ、ほんと、もうむり、って、言われて、っ」

言葉を紡ごうとすればするほど、代わりに大粒の涙がぼろぼろと零れ始める。人目に付くからと一度は頑張って引っ込めた涙が、堰を切ったように溢れてゆく。
いつの間にか天元さんが、目の前におしぼりを出してくれていた。それ、使えよ。いつもよりずいぶん優しい声色をした彼の言葉に甘え、冷たいそれをそっと目に押し当てる。
店内には小さなボリュームで流れるオーケストラのクラシックと、私のしゃくり上げる声だけが僅かに響く。いつもは私の話に茶々を入れたり、軽口を叩きながら返事をする天元さん。けれど今日はただじっと黙ったまま、ゆっくりと紡がれる私の言葉を待ってくれていた。

「……我慢するな。全部、吐き出していい」
「っ、はい、」
「……他に誰もいないから、思いっきり泣け」

俺が全部、聞いててやるから。
いつもより少し低い、穏やかな天元さんの声。初めて聞いた彼の声色に思わず顔を上げると、腕を組んだ天元さんの深い朱色の瞳と視線がかち合った。何故だろう、なんだかこの人まで泣きそうな顔をしているような気がする。哀しげな表情のまま、少し困ったような顔で、ふ、と笑う彼。
優しくて暖かな天元さんの言葉に、安心した私の涙腺は完全に決壊。すきだったのに、だいすきだったのに。アイメイクが滲む事なんて一切構いもせず、私は幼い子どものように只々泣きじゃくり続けた。


「……少しはすっきりしたか?」
「、はい、ずびばぜん」
「はは、変な声」

ず、と鼻を啜りながら天元さんにそう答えると、彼にくすりと笑われてしまった。確かに我ながら変な声だ、思わずつられて私も笑ってしまう。
かれこれ数十分は泣き続けただろうか、その間天元さんは何も言わずに、ずっと途切れ途切れの私の言葉に耳を傾けてくれていた。いつも散々話を聞いてもらってはいたものの、彼の優しさに甘え過ぎてちょっと申し訳なくなってしまうくらいに。
それでも天元さんは、良かった、少しは元気になったみてぇだな、とどこまでも私を気遣ってくれる。ありがとうございました、と鼻を詰まらせたままお礼を言うと、どういたしまして、ていうか寝る前に目ちゃんと冷やせよ、なんて言葉まで掛けてくれたりして。
これは確かにたくさんの女性が虜になっても仕方ないはずだ、女性の扱い方がプロ級すぎる。私もしばらくこの人には、きっと頭が上がらないかもしれないな。


「…なぁ、お前まだ飲めるか?」
「え?あ、はい、飲めます」
「オッケー、じゃあ俺から1杯奢る」

そんな事を考えていると、そう天元さんに声を掛けられた。あ、え、と私がもごもごしていると、ま、お前に拒否権はねぇが、と半ば強引に押し切られてしまう。
お前ラム大丈夫だよな?失恋中のレディにぴったりなやつ、作ってやるよ。そう言い、彼は手際よく棚からリキュールの瓶を取り出した。バカルディのホワイトラム、コアントローのホワイトキュラソー、そしてレモンジュース。ぴったり計量したそれらのリキュールと氷をシェイカーに入れ、流れるような手付きでそれを振る。
鮮やかな動きに暫し見惚れていると、その後用意しておいたカクテルグラスに彼は繊細な動作でシェイカーの中身を注いだ。完成したカクテルは少しだけ白濁した色味をしている。ふわ、と柑橘の爽やかな香りが広がった。

「お待たせ致しました、『XYZ』でございます」

す、と私の前に丁寧な動作でカクテルグラスを滑らせる天元さん。紳士的なその彼の振る舞いは、一見さんや彼を目当てに来店した女性のお客様に向けるそれだ。普段の彼を多少なりとも知っている人間からすればあまりにも気障なその仕草に、思わずくすりと笑う。するとちら、と彼はおどけた視線をこちらに投げてきた。どうやらやはり、彼の振る舞いはわざと行ったものだったらしい。

「XYZ、知ってるか?」
「あ、カクテルの名前だけ」

XYZ。名前を聞いた事はあるけれど、実際に本物を見たのは初めてだ。ましてや飲んだ事もない。少しだけ身を乗り出してまじまじとお酒の入ったカクテルグラスを眺める。すると、カウンターの向こうで天元さんは、あ、と小さな声を漏らした。
その声につられて彼の方を見ると、私の瞳を射抜く彼の真剣な眼差し。え、と戸惑ったような声を出して固まる私の顔に、天元さんの右手がす、と伸びてきた。
そのまま彼の親指が、私の頬をぐい、と拭う。節ばった、少し冷たい手のひら。背が高い彼の手は、私が想像していたよりずっと大きくて男らしいもので。思わず跳ねる私の心臓。こんな風に彼に触れられた事なんて、今まで一度たりともなかったのに。
涙、残ってる。そう言って彼は私の頬を拭った親指を、あろう事かそのままぺろ、と舐めた。かぁっ、と一気に顔に熱が集まる。何してんのこの人、何してんの!
少し目を見開いて口をぱくぱくさせながら、彼を凝視してしまう。驚いた私に構う事無く、彼は涼しい顔で目の前のカクテルの説明を始めた。


「XYZは、終わりや最後を意味するカクテルって言われてる」
「終わ、り?」
「あぁ。英語の最後3文字だろ?『これ以上ない』という意味で、至高のカクテルなんて呼ばれたりもする」

淡々とカクテルの説明をする天元さんは、ちら、と私の瞳を覗き込むように見つめてくる。彼の整った顔立ちが恥ずかしくて見ていられなくなり、ふい、と視線を目の前のカクテルグラスに再度落とした。
だからお前の、言葉を続け彼は囁くようにこう言った。まるで私に暗示を掛けるような、低く艶めいた声色で。

「お前の辛い恋は、これを飲んだらお仕舞い。な?」

ショートカクテルだから冷たい内が一番美味い。ほら、と少し急かすように、彼は私にカクテルを勧める。グラスの脚をそっと摘み、一気に中身を傾けた。ラムと柑橘の芳香が咥内に広がり鼻に抜ける。アルコールの芳醇な香りは強いものの、すっきりとした美味しいカクテルだった。

「、美味しい」
「だろ?」

思わずそう呟くと、先ほどの妖しげな雰囲気とは打って変わって、にい、と天元さんは無邪気な笑顔を見せる。二口、三口でグラスの中身を飲み干すと、よーしいい子だ、と子どもをあやすような口調で声を掛けられた。


「これで、お前の辛かった恋は終わり」
「、はい」
「だが、このカクテルの話にはまだ続きがある」

再び先ほどカクテルの説明をしていた時のような、真面目な声になる天元さん。彼の顔を見ると、深紅の瞳に浮かんでいるのはほんの少しの茶目っ気と真剣さ。なんでだろう、真っ直ぐこちらを見つめる彼の瞳から、私は眼が離せないでいる。

「何事にも、終わりがあれば始まりがあるのが世の常ってもんだ。そこでな、」

俺と新しい恋、始めねぇか?

少し低くて、妖艶な、色っぽい彼の声。その声に私は、まるで思考能力を奪われ、操られているかのようで。
彼が何を言っているかは分かっている。分かっているけど、これは夢なんじゃないだろうか。少し前から、私の心臓はばくばくと身体の中で暴れ回っていた。この音、絶対天元さんに聞こえてる気がする。
確かに彼の事は、最初にこの店を訪れた時から格好いいな、とは思っていた。そもそも彼女いるんだろうな、って勝手に思い込んでた。そんな、好き、とか、彼女になりたい、とか、彼に対してそう思った事はなかった、はず、なのに。


「……女の人みんなに、こんな事、してるんですか」
「はぁ?んなわけねぇだろ」

あまりにも慣れた風な口説き文句に、私の口を吐いて出たのは可愛げのない言葉。お酒に酔ったのか彼の言葉に酔ったのか。分からないけれど、私の顔は今真っ赤に染まっているに違いない。
私の言葉に一瞬驚いたように目を見開いて、天元さんは不服そうな、拗ねたような顔をした。カウンターの上の朧気な照明が彼の表情を照らす。天元さんの顔も少しだけ赤く染まっている、ような気がした。初めて見る彼の表情に、私の中に湧いてきたのは可愛い、という感情。これをきっとときめきと呼ぶのだろう、胸の奥が、きゅ、と締め付けられたような心地がした。

「派手にお前だけだわ、馬鹿野郎」

そう言うと天元さんはさっきのように、また私の顔にす、と手を伸ばしてきた。身を乗り出してきた彼の端正な顔が、近付いてくる。彼の唇が、私の唇に、触れる。
キスをされたということにやっと私が気付いたのは、彼の顔が離れてから、数秒ほど経った後の事だった。





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