此奴は初めて話した時からずっと、やけに勘の鋭い、掴みどころのない奇妙な奴だった。 川に流れる水を掴むことができないように、狭霧山に発生する霧を掴むことができないように、掴み辛いのではなくそもそも掴めるような物ではない奴、そんな男だ。 そこまで多くの人間と触れ合ってきたわけじゃないが、今まで見てきた者の中の誰にも似た人がいない、初めての性質だ。 「では本日もよろしくお願いします、錆兎くん」 「何回も言っているがその呼び方は止めろ」 「何回も言っていますが止めません」 「今日お前が負ければくん付けを止める、じゃあ行くぞ」 「えー」 日夜鍛錬を続けている此奴は急激に力をつけている。一昨日よりも昨日、昨日よりも今日、そして今日よりも明日、足掻いた分だけ着実にだ。 しかし圧倒的に経験が足りない。敵からの攻撃をどう捌けばいいのか、その知識と判断力はある。だが脳の動きに身体がついていけていない。頭では理解していても身体に身についていない、非常に惜しい状態。 昨日よりも強くなった此奴は、昨日と何も変わらない俺に打ち負かされる。 「勝負あり、だね」 「俺の勝ちだ」 「あいたた……あそこでフェイントですか、参りましたね」 「ふぇいんと?」 「相手を惑わせる見せかけの動作のことです」 「おい、勝負の前に俺が言ったことは忘れていないだろうな」 「ええ勿論。手合せありがとうございました、錆兎ちゃん」 「構えろ、もう一回叩きのめす」 刀を習って一年弱の初心者に容赦なく怒気を送るが、此奴はなんともないような顔でケロッとしていた。癪の種でもあるが、此奴の度胸は人並み以上だ。町にいる朗らかなおばさん相手でもあるまいし、何故似た背格好の男相手に、何故、ちゃん付けされなくてはならない、何故。 「わあ、錆兎ちゃんか。ねえ錆兎ちゃん」 「真菰……止めろ」 「そう目くじらを立てなくともいいではないですか」 「お前の所為だろうが」 「鱗滝さんの弟子たるもの、狭量なのは如何なものかと」 「仮にも鱗滝さんの弟子の一人なら他人の嫌がることをするな!」 「……」 「話の途中に飯を食べ始めるな馬鹿!!」 「……んぐ。なんです、欲しいんですかおかか入りおにぎり?一つ丸ごとだと私の腹が死ぬので無理ですが、半分こならまあ」 「自分で食べろ倒れるだろうが、話を聞け、阿呆!!」 「いたたたた」 「男以前の話で人としてどうなんだ!」 ぎりぎりぎり。苛立ちが頂点に達し、耳を限界まで引っ張る。頬は駄目だ、既に試している。痛みを与えるなら頬よりも耳の方がいい。わざとらしく表情を歪めた此奴は口元からおにぎりを放した。 怒る俺と俺に対してやたら軽薄な態度をとる此奴のやり取りに真菰がくすくすと笑みを零している。まったく理解できない。 「真菰、お前が言ってきかせろ」 毎回負かされていれば良い気分にはならないだろう。俺よりも真菰に柔らかく接するのは分かる。……此奴はそれだけの男でないことは、鱗滝さんとの修行の日々を見ていた間で分かっているのだ。なのに何で俺にだけこうなるんだよ。 「私は良いと思うな。錆兎ちゃん、さびちゃん」 そうだった。真菰の奴は真っ先に此奴の真似をしたんだった。 「それにね、雪成がさびちゃんの名前をきちんと呼ばないのにも、理由があるんだよ」 「なんだと」 「ね、言ってもいい?」 「本人の前でって恥ずかしいですね」 「言わないとさびちゃん、もっと怒るよ。ふしゃーって」 「兎が猫になってしまいますね、ではどうぞ」 「おい」 誰が兎だ。人が気にしている事を言うな。 「さびちゃんは雪成を名前で呼ばないから、その意趣返しなんだって」 「…………」 考えもしなかった言葉に思わず口を噤んだ。それは、確かに、そうだが……しかし…… 「どうして呼ばないの?」 「……それは……」 別に、認めていないわけではない。憎き鬼を連れていたとしても、限界を超えようと努力する姿は認めざる得なかった。認めたからこそ此奴の前に現れ、稽古をつけているのだから。 「俺は……」 嫌いというわけでもない。掴みどころがないのもやや反抗的な態度も、不得意なだけだ。ただ、そう、俺は。俺は何故か、此奴の名を呼ぶと生前も今も味わったことのない、変な気持ちに陥るから。なんとなく避けていたのだ。だから心中でも回避し続けていた。 だが……もだもだしているのは男らしくない。相手にも失礼だ。 「悪かった、ゆ」 …………。下手に時間を置くな、俺。もっと言い辛いだろうが。男ならどんといけ。 「ゆ――ゆきなり」 「はい、錆兎」 一点の曇りもない柊の実のような目が嬉しそうに形を変えて俺を見た。勝負の際にみせてくる冷たさと静けさは今はどこにもなく、ただ暖かい。そうやって俺を見ながら、名を呼んだ。ちゃんだのくんだの、二文字三文字がついていないだけで、それだけなのに。 「あれ?さびちゃん動かなくなったね」 「微動だにしませんね……?」 「んー?……今の内にお昼ご飯食べちゃえ雪成」 「それもそうですね、そうします」 全集中の呼吸を使っていないにも拘らず血の巡りと心臓の鼓動が速まっている。どうしてこうなるんだ。本当に本当に、奇妙な奴だ。ゆ、ゆゆ………………雪成は。 戻る |