鏡花、愛しい妹の名を呼ぶと鏡花は乏しい表情を微かに綻ばせ、お姉ちゃん、と私にすり寄った。


鏡花と私は、孤児である。
鏡花を生んで母は死に、私が十歳、鏡花四歳の時、父が死んだ。
引き取られた孤児院で、私は馬車馬のように働かされ、鏡花は暴力の的となった。


私が十六歳、鏡花が十歳の時、私達は孤児院から抜け出して横浜の地で二人で暮らし始めた。


しかし、都会というものは存外田舎者には厳しく、昼は喫茶店、夜は酒場で働いて漸く二人で暮らしてゆける程度だった。



「大丈夫、鏡花は何も心配しないでいいの。鏡花は私が守るから」


鏡花を守る。いつしか其れが口癖になっていた。



私が十九歳、鏡花が十三歳のとある夏の日、黒のスーツに身を包んだ女性が我が家を訪ねてきた。
女性は樋口と名乗った。
樋口は、鏡花の「異能」に目を付け、鏡花を引き取りたいと言い出した。塗装の剥げた卓袱台に黒いアタッシュケースを乗せ、開くと、ずらりと並んだ札束。


「鏡花さんを引き取るに当たっての貴女の報酬です。足りなければ、此方にお好きな金額をお書き下さい」




金額の書かれていない小切手を差し出す。
しかし、私からして見れば、樋口は私から鏡花を奪う敵。しかし身なりの汚い鏡花に贅沢をさせたいと思う姉心もあり、暫く悩んで、私は小切手とアタッシュケースを閉め、突っ返した。


「鏡花を、貴女たちに預けます。ですが……お金はいりません。このお金で、鏡花に美味しい物を食べさせてあげて下さい。鏡花に綺麗な着物を着させて下さい。幸せに、してあげて下さい」



樋口はにこりと笑った。承知しましたと嗤ったのだ。私は私が歯痒い。私から離さなければ、鏡花に贅沢もさせてやれないのだ。鏡花は無表情でそれを見ていた。

鏡花、ごめんね。
小さく、細い体を抱きしめた。


鏡花、愛しい妹の名を呼ぶと鏡花は乏しい表情を微かに綻ばせ、お姉ちゃん、と私にすり寄った。


嗚呼、可愛い妹。貴女はどうか幸せになって。















次の日、私の手から私が守るべき可愛い妹が消えた。

樋口が攫ってしまった。



手元には何もなくなってしまった。





それから一ヶ月が経ったある日のことだった。

夏の残暑も残る、茹(う)だるような夜だった。


小さな足音に、ふと目を覚ます。
白い足袋が、私の手の先に立っていた。
横にしていた顔を天井に向けると、黒い上等な着物を着た少女が立っている。


「お姉ちゃん」


「鏡花?」


どうして鏡花が此処に?引き取り先で何かあったの?聞こうと口を開いた瞬間、畳に転がしていた左手に、勢いよく何かが刺さる。

刺さった激痛はぼんやりとした私の意識を覚醒させた。見れば、鏡花の能力である「夜叉白雪」の刀が私の手を刺し貫いていた。


「きょ、鏡花……?何で、鏡花、痛い、痛いよ鏡花、夜叉白雪、止めて、止めて!」


夜叉白雪の刀が右手をも刺し貫く。
赤い血が、襤褸のような布団に染み込んでゆく。悲鳴を上げるのに、襤褸アパートの住民は誰一人として来ない。


「お姉ちゃん、」


「鏡花、鏡花、鏡花、」


ただ妹の名を呼び続ける。
夜叉白雪が、また刀を構えた。
私の上に乗り、私の胸の真ん中を狙っている。



―――殺して、救ってやれ。鏡花。実の姉の幸せの為に、姉を殺せ。



鏡花が首から下げた携帯電話から無機質な男の声がした。誰と思う間もなく、夜叉白雪の刀が、振り下ろされた。

鳩尾の下を、刀が通り抜け、また抜け、また刺される。一息で殺してくれないのね。鳩尾に三回目の刀が埋め込まれた辺りから痛覚がショートしてしまったらしい。ただの熱が流れる感覚のみがあった。


「きょ…………か」


首を動かして鏡花を見れば、無表情な顔には不釣り合いな透明な液体が、頬を伝っていた。


嗚呼、やはり私は莫迦だ。貧乏でも何が何でも鏡花の手を離すべきではなかったのだ。鏡花に家族を殺させることになるなんて、何て、不幸に、させて、嗚呼、もう意識が……、めが、かすれて、さむく、て……。







事切れたお姉ちゃんの体から夜叉白雪を退かす。電話からの指示は切れていた。お姉ちゃんの死体に近寄って、いつもお姉ちゃんがしてくれたようにお姉ちゃんの髪を撫でる。


「お姉ちゃん、どうか、死後の世界では、しあわせになってね」











「死併せ定義パラドクス」







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