ティンカーベルの入浴3
泣いた妖精の夢をみたように思う。
目を覚ました益田が時計を見ると、針は起きる頃合いにまでやって来ていた。朝、である。覚醒しきらない頭を幾度か振ると、髪の毛がぱさぱさと音を鳴らした。手探りで煙草の箱を掴んで一本取り出し、益田はそこで吸いたいわけでもないことに気がついた。投げ出すように枕元にその軽い箱を置く。 蒲団の上に座り、益田は視線を窓の外にやる。空の色がずいぶんと薄い。 胸に手をやった。柔らかい感触。まだあるのか。気分が落ちる。 ――薔薇十字探偵社に出勤しないわけにはいかなかった。いくつか依頼を引き受けているし、なんとしてでも調査料を頂かなければ今月の自分の給料が出ないのである。益田は服を着替える――下着をつけるのに少し躊躇った。三千世界が滅んだが如くしかめられた、彼の顔を思い出す。 ―――何に赤くなってるんだ僕は! 後ろ手に急いでホックを閉めて、益田はなるべくそれを見ぬようにして上にシャツを羽織った。見たくない!釦をとめる。ネクタイを結びカーディガンを着てジャケットを重ねる。ズボンを履いてベルトを締める。そうすれば何時ものどうでもいい探偵助手の出来上がりだ。これでいい、そう、これでいいのだ。ぶつぶつと独りで彼は呟く。顔を洗い髪をなでつけて、外套を羽織りマフラーを巻いた。朝食はどこかで時間を見つけて済ませればいい。益田は鞄を掴み部屋を出た。戸に鍵をかける。行ってきます、とひとりごちた。喉が何となくいがらっぽくて益田は咳ばらいをする。 そういえば今日は。思い出した予定に思わず頬が緩んだ。益田の憂さ晴らしには欠かせない楽しみが入っている。
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―――居酒屋。 鳥口は何だかんだでやっぱり女の子にモテる。しかもあまりタイプをもたないらしい。小股の切れ上がったような美人からいかにもお嬢様といった大人しい子まで、つまりは守備範囲が広いのだ。「女の子はみんな可愛いすよ、あでもやっぱ胸はあったほうがいいす、巨乳は正義っすから」言いながら赤い顔でげらげらと陽気に笑う。青木がきみは酔いすぎだと顔をしかめる。「えーなんすかおっぱいは男のロマンでしょうよ」「ああそうだ青木さんそれで件の敦ちゃんとはどうなんですかあ」絡む鳥口を遮って話を変えたのはこれもほろ酔い状態の益田である。 なんだいそれは――しかつめらしい顔を崩さない青木を鳥口が「青木さんはいっすよねえ敦子さんなんすもんねー敦子さんかわいいでしょう」囃し、その後を「人生の春でしょうまさに盆と正月が一緒にきたようなおめでたさですよね」益田が追いかける。 「…君まで諺を間違えるなよ…」 頭が痛いとでもいうように青木は頭を抱えた。青木の恋人は才媛中禅寺敦子である。而して、彼には他の独身男仲間二人のからかいをその一身に受ける(のちには流す)義務があるのである。益田と鳥口が勝手に決めた。益田はネクタイを緩めてはたはたとシャツの衿で顔を扇いだ。流石に酔えば暑い。先からカーディガンは脱いでいる。飲み始めてどのくらい経ったのだろう。一時間は過ぎたのだろうか。ふと思い出して益田は口を開いた。「いいなア、僕は先だって敦子さんと買い物行ったんですけど矢ッ張りかわいかったっすよう」 「え?買い物行ったの? 君が」鳥口が身を乗り出して尋ねてきた。益田はハイそうですようと笑う。 「いやあ―――…どうかしました青木さん」 視線を感じた。 青木が何か妙なものでも見たような目でこちらを見ていた。次の瞬間腕が伸びて来て、反射的に益田は身を縮ませる。衿を捕まれた。青木が焦ったように言う。 「きみ釦を閉めろ」 「――ッは…?」 ――そこで漸く益田は気づいた。ばっと青木から飛びのいて、自分の胸元を覗いた。 「うわっ、うあはい、はい、はいはいはいとめます今とめます」 「え?なに」 鳥口がぽかんとした顔で聞いている。益田は急いで釦を留めてネクタイを直した。青木がひきつった声で応じていた。「いや、何でもないよ、ちょっと来て益田君」 衿を直して視線を上げると目が合った。怖い。 益田は精一杯軽薄に笑って言った。 「あ、いえそんな別に青木さんに、なんだ、そんなお気を遣っていただくことでは」というか、どうぞ、お構いなく。 「いいから」 唸るように言われては逆らいようが無い。一気に酔いが覚めてしまった。益田が店の外にしょっぴかれていく光景をドナドナみたいだったよと後日鳥口は評した。
白い月が出ている。 苛立たしげに煙草を吸う青木。 「何それ」 それって。 「や、――…胸ですね」 「何で」 「いやわかんないですけど、何か、朝起きたらなってました」 ふざけている。我ながらギャグみたいだと思う。 「そのさあ」 殆ど吸ってもいない煙草を青木は地面に落として踏み潰した。怖い。 「下着は何、持ってたの」 「ち、違いますよ」 「じゃあ…敦子さんと行った買い物ってそれ? とすると…中禅寺さんは知ってるのかな」 ご明察ですと益田は力無く呟く。 「流石現役刑事ですね」追従の台詞は最早習性である。青木はがりがりと頭を掻きむしった。 「君は元警邏としてはやはり粗忽過ぎると思うがなあ」 「ひどいなあ」 益田はへらへらと笑った。青木が不機嫌そうに言葉を継ぐ。 「君なんかただでさえ弱いのに。襲われたら抵抗、とか出来ないだろう、気をつけたまえよ」 「そんくらい出来ますよ、何言ってんすか。それに今のはあれです、ニアミスですノーカンですよ」 「馬ッ鹿だなあ、君は本当馬鹿愚かだな、今だけは榎木津さんに同意するよ」 ―――笑い話にしたかったのに。生真面目な目の前の友人はそれを許してはくれないらしい。険悪な雰囲気は苦手なのだが。 何となく目を逸らしているとふと思い付いたように青木が言った。 「ん。じゃあ、下着買えって言ったのは中禅寺さんなの」 「………そうです、けど」 何だか肯定するのが物凄く不本意だった。青木がふうん、と言って眉を上げる。 「…何ですか」 「いや、ううん、そうか。じゃあそっちに言った方が早いのかな」 「は?」 どうしようかなア。 その声は先刻と打って変わって楽しげである。なんでだか益田は知らない。 「――いや、お灸を据えるなら中禅寺さんが適任なのかなあと思ってね」 悲鳴のような声が出た。厭ですよう。しかし青木はうんじゃあそうしようかなあとか言っている。やめてくれ。 「あなたあの人に怒られたことないんですかものすッごく怖いんですよォ、厭です絶対、」 「あったことを言うだけだよ」 「…僕もあなたが話盛るとは思いませんけど、でも、何でよりにもよって」 「いやあ、僕もいろいろ鬱憤は溜まっているわけなんですよね。君と鳥口君にからかわれて」 本気だか冗談だか判らない。これが因果応報というやつだろうか。 兎に角、と言って青木は益田を見据えた。 「最近は治安も悪いし、君なんか危険な仕事をしてるんだから、気をつけないといけませんよ」 本当に真面目な刑事である。敦子が惚れたわけがうっすら理解出来る気がする。益田は軽薄に茶化した。青木に心配されるなど慣れていない。「刑事の鏡ですねえ青木さん。かっこいいですよう」 「よしてくれよ気持ち悪い、君なんか御免だ」 青木は真顔でそう応じた。飲み屋の裏の路地は冷えていて、酔いの熱をほとんど奪ってしまっていた。そろそろ戻りますかと青木が言い益田を店内に促した。 月が白々と冴えていた。
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