崩壊するテトラポットと世界の果てに降る雨について
※へこみますだ
誰よ誰よ誰なのよ。 女の狂燥的な声がいまも耳の奥に尖って鼓膜に縫い止められていた。突き刺さる。だらだらと神経が血を流している。あるひとつの終焉に遇々益田は居合わせてしまった。いや、その言い方は不適当だ。益田がその幕を引いたのだ。引き金をひいたのは益田だった。 いずれ終わる愛だったといえばいいのか。そうして殺していくのだろうか。(ああ何を。愛を?僕の心を?それともこの、罪悪感を?)きっと綺麗な恋で愛で絆で未来だった。そうして夢見られて、あれらの睦みは創られたのだろう。どうしてねじまがっていってしまうのか。いつもいつも沿わないほうへと物語は動きつづけた。ぐずぐずと泥寧のなか終る。死神はきっと益田だった。依頼人、あの人もひどく優しい人だった。ひょっとしたらそれがすぎてしまうような人だった。 愛を撃ち殺したのは僕だ。引き裂いたのはこの手で脳で、足で目だ。突き付けた調査書は刃物に違いない。 (ああ、だめだ…) こんなにぐずぐずと湿った日なのがいけないのだ。 曇天は今にも泣き出しそうに燻る。どんよりとした蟠りが町にみちていまにも閉じていきそうだった。 滲んできた涙を袖で拭った。すん、鼻の奥が痛い。すん、すん。泣きながら歩いていた。陰欝な町が気を塞いで哀しみを行き詰まらせる。しゃくりあげていた。 「っひっ、ひ―…」 ごめんなさい。 ごめんなさい。 ごめんなさい。 男性の哀しげな笑みが。女性の鬼のような顔が。浮気相手の若い女性が俯いてわかった細い細い肩の線が。喫茶店の、耳をかすめていく有線放送の笑い声が。非道く残酷で、身を切られていくように思った。鞄に忍ばせた探偵料が強盗でもして奪ってきたように感じる。
脇で車が停まり、賑やかな音をたてた。 ―益田君じゃない。どうしたの? よく耳に馴染む温かいこえがそう云い、驚いて振り返ると、友人が不思議そうな顔で、車から顔を突き出していた。
*
自動販売機から缶珈琲がすべり落ちた。鳥口は屈んでそれを取り出すと、益田に手渡した。受け取った缶は熱かった。 冬の海は寒くてぼんやりとした色をしている。定期的に波が、ざざん、ざざんと弱くひいては返し、それを静止しそうなスピードでずっと繰り返していた。鼻に絡まる潮の匂いに益田はどうにも違和感を覚える。鳥口はぶらぶらと、益田の前を、波打ちぎわに向かって歩を進めながら、下を向いたり曇った空を見上げたりしていた。風は少し肌寒い。コートも着ずに海に来たことを益田は少し後悔していた。 手のなかの缶珈琲を開けようとした。うまくいかない。一度指を挟んで、「痛っ」とつぶやくと、鳥口は気がついて戻ってきた。 「どうしたの?」 「ん、缶が」 「ああ」 なぜか囁くように話してしまう。風が二人の髪をさらった。体が近かった。 鳥口はプルトップをひねって缶を開けた。彼の指は益田のそれより少し太い。今更のようにそれに気がつく。はずみに指が触れた。温かった。 「開(あ)いた」 「うん」 中からじゅくじゅくと泡まじりの珈琲が溢れる。勿体ないな、と言うと鳥口は、それを啜った。缶をもった益田の手が僅かに震える。細い珈琲の缶の熱が尊かった。 潮のにおいがする。 「好きなんだ、ここ」 ぽつりと鳥口が言った。 「海が?」 「うん」 冬の海ってさあ。再び群青の海のほうを向いて鳥口が言う。 「閉鎖された世界ってかんじがするでしょう」 どんよりと曇った空にパックされた、暗い青色をした海。物悲しいようでもあった。幾度も打ち寄せるその行為が。 鳥口は益田を少し肩をすくめて眺めた。彼らしくないと益田は思う。方向音痴の彼が、きちんと目的地(この海)にまで辿り着けたということだけでも、賞賛に値すべきことだろうけれど。 ―鳥口は奇妙な表情をしていた。静かな、でもどこか困ったような。あまり見たことのない類の表情だった。陽気で気の良い彼にしては。 益田は缶珈琲に口をつけた。ひどく甘く、そして苦い。幾度か言葉を探してから益田は、 「どうしたの、鳥口くん」結局そう尋ねた。 「あの、さ」 鳥口はそう言い澱んで、そして同じように言葉を探しているようだった。益田は肩をすぼめた。海岸には人気がない。潮騒。冷たい風だけが活きている。そのように感じた。 ばたばたばた。打ち捨てられたビニールシートだか何かが広い灰色の砂浜を転がっていった。 「あ」 ふと気がついたように鳥口が言う。 「さむい?」 「え…」返事をする前に、コートを纏った彼の体は益田を抱いた。ひくり。強張る。 ばたばたばた。風が吹いた。服を、髪を、さらう。 耳元で鳥口が言った。その声質に驚く。ひそやかに低められた声。 「…泣いてたでしょ」 初めて見たからさあ。益田君が泣いてるの、だから――― 「どうしていいか、わかんなくなっちゃって」 錆びれた喉の音にどくどくとした。しずかな声だ。益田はぎこちなく彼の首に腕を回した。彼は益田より背が高かった。思ってくれている。そうわかった。うれしかった。缶珈琲はゆっくりと屍に変わるようだ。剥落してゆく。滑り落ちる。そういうふうにして恋は終わる。幾つもの幾つもの。そうしてあぶくのように人は生きる。生きてゆく。
「もう、いいんだ」 益田はそう言った。それでも鳥口は寒いでしょうと言って、結局二人はしばらく体を寄せ合っていた。鳥口の肩越しに海を見る益田の視界には、ひどく遠くのほうにテトラポットが積み上げられているのが見えた。あれもまたいつか壊れるのだろう。 ならば許していかねばならない。終わることも始まることも。 愛することも憎むことも。
*
鳥口があの海をすきなのは、あそこが箱庭のようだからだった。 終わりと世界が。躍動して息づいていたから。寂しくもあったが、どこかで覚悟を決めることもできたから。きもちたあ残酷なものですね。目に見えないくせに人間を支配するんですから。目の端を紅くして益田が言う。ぽつぽつと零す。零落。海。酒と言葉と彼と、海と傷とあのひとと―― 混じり合い揮発していく、精油は飛び散り本質を異ならせる。むずがゆいのは誤謬。未来と今がいつもそこで溶け合って歪んで生を曖昧に濁らせている。 「先のことなんてわからない、わからないのに」 過ぎた今はもう今じゃなくて、次の今とこの今は違うのに何で。 「そういうふうに、管理しよう、とするんでしょう」鳥口は安普請の椅子の上で、鼻から息を吐きながら体を伸ばす。居酒屋にはあまり似つかわしくない会話であると思う。それでも鳥口は何とか思考を巡らせて答えを導いてみせた。机にのった麦酒の鮮やかな黄金色がやけに美しく映えていた。 「さみしいから、じゃないの」 人は孤独では生きれないよ。 俯いて彼は言う。黒く柔らかな前髪が垂れる。細い体の線が痛々しかった。 「…ねえ、じゃあ人間って随分かなしいですね」 鳥口は窓の外を見た。外ではとうとう雲が泣き出していて、薄暗かった。 「そうでも、僕はね」 居酒屋の中は人が多いせいもあって暖かい。益田は鳥口の声にふと目を上げた。「そうでも―」 酒の匂いがする。酔う。 (軽薄が僕らの美徳のはずだった) 「君が泣いてると、心配なんだよ」 益田が目を見開くのが見える。 崩壊するテトラポットと世界の果てに降る雨について。その向こう。(愛から世界は始まっていく)
111022
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