こんにちは、そう言って目を愉しげに細めさせる。高峰にある刺だらけの薔薇よりは、すぐそこに生えたしょぼくれた野花のほうを人は好む。手軽な快楽。性などという誰にでも備わったものを売り物にして、その男は活きている。ああ、こんばんはでした。そう言う。夜の湿った、そして何もかもを受容するような空気を撒き散らしていた。ふしだらでけじめの無いずるい男。男の寄り掛かったガス塔がちかちかとあおじろい光を瞬かせた。
ジヤズクラブで働こうと思った程で。口と同様にそいつの指は軽く動き、ちょっと驚くくらい流暢に決められた音を立てて、曲たちを作り上げていった。立ちのぼる世界。鍵盤をたたくという、それだけの作業に没入する男は、ただの一途でひたむきな普通の人間のようだった。ずるずると伸ばされた黒い前髪が揺れる。薄い唇が僅かに開いたり閉じたりしていた。リズムに合わせて微かに揺れる体。指先、驚くほど小器用に的確に、白と黒の間を辿り、弾かれるようにあちこちを叩いて回った。その動きは決まった運動か様式のようによく練られて熟されていた。こうするのが当然であり、美をつくりだすということに慣れきったとでも言いたげな弾き方だった。指自体が意志をもち、若しくは鍵盤自体が生きていて、勝手に音楽を作っていく。そんなふうにさえ見えた。
「気持ちいいでしょう、ああいうふうにしてたら」
それは正直な感想であった。興奮、達成感、何と言うのだろう―ある高い形式を再構成することのできる、喜び。彼の演奏は、私とはまるで縁の無いそういうものに満ちていた。
「そうですね」
男はそう言うと、大したことはないですよ―と卑屈げに笑った。それは染み付いた習い性であるのだろうか。
「謙遜が過ぎると思うけど。ああいうふうに弾きたい人、いっぱいいるでしょ、きっと」
「人なんて、関係―無いですし」
傲慢な言い様だと聞く人間もいるのだろう。けれど結局のところ、人間の世界には自分ひとりしかいないのだ。憧れ、目指し、努力したのも自分独りであるだろうし、ここまで成就させたのだって、何のことはない、自分の為だ、自分の意欲で、自分が楽しいからやったのだろう。そしたらそれをどう扱うのだってべつに―自分の自由、なんだろう。
だが実を謂えば、私がそういう結論に達したのは実の処、数回彼と逢瀬を重ねた頃だった。それまではやはり彼が埋めた才能のもったいなさに憤慨したものだった。
そしてその度男娼は困ったように―眦を下げて笑うのだった。褒められるのは、彼は苦手なようだった。蔑まれるのは得意で、好きなようでもあったけれど。

男はそんなに感じ易いとか素質があるとかいう方ではなかった。顔だって、よく好まれるような愛嬌のある印象ではなくどちらかといえば、鋭角的で軽薄そうな面立ちをしていた。
ただ媚びることに手慣れていて、抱かれることが妙に巧かった。けけけと笑っておどけるのが好きで、その姿はいじらしくさえ感じることができた。
益田は月に二度程、客引きで街に立ち、いつ調べたのか、私の帰り路で私が通るのを待っているのだった。紅い口紅はその顔の中でやはり浮いて見えたものだったが、回を追う毎に見慣れたものに変わっていった。抱くときは拭わせたし、そうでなくとも接吻で剥がれていってしまうのだ。
どうにも益田が譲らないのがその髪である。これがあると弱く見えていいでしょう―そう言ってにやりとする。何処まで本気なのかは分からなかったが、事の最中に振動に合わせて揺れるその髪はときたま、ひどく淫らに見えた。只少し俯くと彼の表情が見えづらくなるのが欠点であり、私はその度に少しいらだちながら、髪を分けたり押し上げたりした。そうすると彼は笑いながら嫌がって、身を離そうとするのだった。
恋に落ちる。






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