3


「山蛇に咬まれたことについて」

だから、生みだしてくれないか。すべての罰を背負うだけでなく、すべての罪をも背負うような愛を!

だから、生みだしてくれないか。誰に対しても無罪を言い渡す正義を!

〜ツアラトゥストラ(フリードリヒ・ニーチェ)


過日の戦争で榎木津は気が狂ったのだと噂された。
目を負傷して還って来た彼は、ひとりで空(くう)を指差して騒いだり、人と会えば、虫だの死体だのと、わけのわからない妄言を吐くようになった。
元々彼は変人だということで有名だった。だけれど復員後の様子は最早、常軌を逸している、人はそう囁きあう。
御曹司はどうしておかしくなったのか。人殺しの罪を背負えきれなかったのか。阿片を吸ったのだろうか、それともはたまた狂いを装っているだけなのか。
噂はまるで波のように伝わってゆく。渦中の人は無頓着だから、否定もせず、それはだんだん事実として浸透していった。
即ち――榎木津礼二郎は狂人である。

目を開けばそこは白い世界で、だがすぐに暗転してしまうような、おかしな空間だった。流れる光は白を撹拌し濁らせて、曖昧な色を残していく。日は落ちたのだろうか。何も見えなかった。
瞼の裏を尾を引いて光が流れた。それを見ていると頭が痛んだ。
「…カズトラ」
起きられましたか先生。お医者様が安静にしていなさいとおっしゃっていましたから、そのままでいらしてください。
目の上に載せられたタオルが変えられる。何もかもが朦朧としておぼつかない世界にいた。不安は感じなかった。そういう性格なのだ。ただぼんやりと理不尽だと思った。
記憶を引き出そうと試みる。
――まばゆいひかりをまともにくらった。そこから何も見えなくなった。どうやって逃げたのかは覚えていない。


一月あまり経って漸く、榎木津は立って歩けるようになった。だが視力はひどく悪くなった。
世界は相変わらず拡散をつづけていて、意味の掴めるものは殆ど無かった。
時を同じくして、不思議な現象が起こり始めた。
よくわからないものが視界に入る。
始めは、靄のようなものだった。亡霊のような、ひどく幽かな。だが日増しにそれはくっきりと見えるようになっていった。
最初は気にしていなかった。目の傷の後遺症だと思っていた。だが次第に形をとりはじめたそれらに榎木津は困惑した。記憶ではないかと――それは旧い友人が教えてくれた。古本屋などやっている変わり者だ。
榎木津のことは榎木津がいちばんよく知っているから自分が狂っているなどと思っていはしなかった。
だけれどやはり少しだけ、安心した。

娼館で男でも抱けばいいと金をくれたのは兄だった。
「お父さんには秘密だよ」彼は子供にするように榎木津に笑いかけた。

―そこでは痩せた男が音楽を弾いていた。榎木津は嬉しかった。
うつくしい男たちはみな目をこらさねば分からなかったけれど、黒男の旋律を聴くのに苦労はなかったから。ピアノを聞いたのは復員以来だった。
うつくしい音だった。
ショパンを弾けと言うと彼はちゃんと弾いたし、近寄って見た人懐こい黒い目は少しだけにゃんこに似ていた。名前を聞くとマスダリュウイチだと鳴いた。その声も中々気に入った。




薔薇の残り香はいつまでも染み付いて、ずっととれないようで、けれどどこかでそれを望んでもいた。益田は幾度かショパンを弾いた。榎木津が聴きに来ればいいと思った。(見ているだけで満足ですから)

「―わ、やめてくださいよう」
「いいだろ、少しだけ」
薔薇のにおいのしない貴族がそう言って益田の髪を梳く。切ればいいのに。くちづけてくる。切れませんよなんたってこれがあればひよわに見えますからね。髪に彼は唇を落とす。
「あの…榎木津って人のこと知りませんか?」
「榎木津?」
どうして。男は尋ねながら男娼を抱き寄せた。
「噂で…気が違ったって」貴族は益田の首筋を嘗め上げてから言った。
「ああ、うん、噂を聞いたよ」「ふ、なんですか?」彼は益田の腿を撫でる。
「次男坊が捕まったらしい」
「え?」
うまく理解出来なかった。男が緩やかに益田を押し倒して乗り上がる。体重を馴れたようにかけながら、益田の目を見て言った。
「…逮捕されたらしい。人殺しの罪咎で」
青ざめた益田を見て男が言う。首筋に跡を散らしながら。
「なぜ榎木津?」君を買ったのはわたしなのに。その声は砂糖菓子のように甘い。
すみませんと益田は言った。「こっちの世界で榎木津様は有名ですから。人を殺して逮捕なんてそりゃまた…何でですかね」
「何故も何も―彼は狂いだろう。狂いだったらなんでもありさ」くちびるが下りて来る。益田は尋ねた。
「誰を殺したんですか?」貴族は思い出すように顔をしかめた。
「乞食だという噂だったな」
指が遊び始めた。服の中に分け入って来る。
「あ、あ、ん、いや」
「嘘吐き」
彼は笑いながら言い、そして益田はその通りだと思った。寝台が鳴る―
益田は恋などお伽話の中のことだと思っていた。
そんなもの訪れるわけがないと。こういう商売をしていればそれはなおさらだった。愛だとか契りだとか、誠実だとか、何の足しにもならない。

榎木津。

栗色の髪や榛の瞳や快活な声をどこかで捜していた。日毎に薔薇のにおいは消える。それなのに益田はどんどん彼を乞うてゆく。堪らない。ひとりで溺れるのはくるしかった。
益田は他の男を想いながら男に抱かれていた。そんな日がくるなど思いつきもしなかった。そういう女のことを世間では、双つ頭と呼んでいた。
―双つ頭。確かに二つに引き裂かれてしまったような気持ちがしていた。益田の一つは彼の元にあるのに自分は…男娼窟に置き去りだ。哀しかった。
あの薔薇の香に埋もれて益田はいちど確かに死んだ。それからは益田のものである益田は半分でしかなくなってしまった。
榎木津礼二郎―人殺し?
考えることもできなかった。ただもう一度だけでもあの人に、益田は逢いたかった。
人はどんなときでも孤独だと益田は思うている。であるのならどうして、こんなにあなたが愛しいのだろう、あなたを乞うてしまうのだろうか。
その答えは見つからぬ。ただただ、恋心だけが腫れ上がる。








終われなかった

110825//




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -