猫・1
男は冷やかに笑い益田の鼻先をてのひらで押し除けるようにした。ロマンスなんて要らないぜ坊や。男はシニカルに笑って告げる。殆ど動かない口元が、男の感情の無さを証明しているようだった。益田はソファに座り直すと再度視線をテレビに投じた。 何処か投げやりな雰囲気を纏ったこの十五は年上の男と益田が出会ったのは、五日前のことだった。 益田はある男の情夫(いろ)をしていた。適当なその日暮らしは半年と少しの後に終りを告げた。 浮気がバレて益田は恋人に家を追い出されたのだった。何とか財布と携帯は引っつかんで命からがら益田は逃げた。全く行くあてはなかったから、困ったと思いながらふらふら街をうろついていた。じきに夜が来た。 誰か部屋に連れて行ってくれるやつが見つかるかもしれかったから、益田はクラブに行った。ベッドのためなら誰と寝るのでも良かった。 そうして訪れたクラブに、男は居て、調子の好い益田にお前は阿呆かと呆れながらも、結局は、目論見通り益田を持ち帰ってくれたのだった。
男の職を益田は知らない。名前すらあやふやだった。高級マンションで一人暮らしを送れる程にはもうかる仕事をしているのだろう。 あまりしつこく尋いて放り出されるのも厭だった。
初めの一夜を共にした、その次の日。 益田が目覚めたのは昼過ぎで、男の姿は当然のように掻き消えていた。 実を言えば益田はわざと遅く起きたのだ。下手に朝から出て行けだの何だの言われないように。とにかく相手が帰って来るまでは居場所を確保できるように。手慣れたものだと自分で思った。 また益田は、ご飯をつくってあげるのも機嫌取りにはいいことを知っていた。夕食にはパスタとスープでもつくろうと、そこまでを起きぬけの頭の中で考えた。
テレビ、パソコン、オーディオ、ベッド、クローゼット、本棚―ひどく無個性なインテリアだった。別にいいのだが生活感がない。確認してみると洗濯物も洗い物も溜まっていなかった。一人暮らしなのに異常だと思った。カノジョがいるのかもしれない。 そこまで思いながら益田はシャワーを浴びた。そして財布を掴んで下着や食事を買いに出た。
帰って来た男は益田が居ても別に何も言わなかった。 伸びたパスタと温いスープを黙々と食べて、おまえ風呂どうする、と聞いただけだった。風呂には二人一緒に入った。
そうして五日が経つ。彼との生活は総じて快適だった。体の相性も良かったし、距離感も無執着さも益田は好きだった。 男の家の近くには図書館があって、それを発見してからは益田はよくそこで本を読んで過ごした。それにも飽きたらゲームセンターに行った。 男との生活は益田にとって殆ど理想の生活と言ってよかった。鬱陶しい感情も煩わしい義務も無い。浮草のようなだらしのない生活。それはひどく心地好かった。
男は、益田を厭わしくは思っていないようだった。が、恋人ごっこをする気もないようだった。セックスはしても、何気ない接触や接吻はやんわりと拒否された。 そして一週間が経つ。 天気の好い日曜日の朝のことだった。 「おまえいつまで此処に居る気だ」 男はトーストを噛み新聞に目線を落として、寝室から起き出してきた益田に尋いた。もののついでとでもいうように。 「居ちゃだめすか」 「駄目ってことはねえよ、メシと掃除やってくれるからこっちとしては助かるけどな」 「そうですか」 益田は腹を掻きながらリビングのテレビを点ける。芸能人が笑っている。この時代の象徴のようだと思った。見かけだけで繋がってはいない。最大公約数的な愉しみを振り撒く。明るい光の中で念入りに化粧した女が笑った。 「決めてないです」 男は、インスタントコーヒーを啜りそうか、とだけ返した。そして少し経ってからまた、何でもないことのように言った。 「俺は警視庁に勤めてるんだがな」 益田はリモコンを取り落としそうになった。ものすごく汗をかきながらそれを握り直す。 「へえ…凄いですね」 「それでさ」 何なんだ、チャンネルを変える。ワイドショーの時刻だった。男が言う。 「おまえ元警察官なんだって?」 「もう辞めましたけど」 「結構優秀だったと聞いたが」 「そんなこたァありません、ただのヒラの刑事ですお蔭様で」 男が微かに笑う、おまえの日本語の使い方はおかしいとそう言って。益田はテレビを消した。つまらなくて、まだ何も見ないほうがマシだと思った。何ですかそれ、ひどくつけつけとした物言いになった。 「僕アいまの自堕落な生活が気に入っているんです、昔のことなんていいでしょうどうでも、というかそれ、何で知ったんです、あなた僕の名前聞きましたっけ?」 男は飄々と答えた。 「最初会ったときにおまえ言っただろ初めまして益田ですウって。顔に見覚えがある気がしたから少し調べたんだ」 「暇なんですね」 「勝手に転がりこんできたおまえに俺を咎める権利はない」 酷い言い様だと思ったがその通りだった。嫌なら出て行け―男がそう一言言うだけで自分は終わりだ。益田は手元のリモコンのボタンを出鱈目に押して言った。 「――僕アあんたの名前も知らないのに」 男は、そんな奴の家に一週間もいたのかおまえ、馬鹿だな、と笑った。 「馬鹿ですよお蔭様で」 「おまえが馬鹿なのは俺のせいじゃねえだろうが」 益田は口が減らないのはどちらだか知れないと心中で毒づく。男は初めて新聞から目を上げて益田を見た。 「俺は公安一課の郷嶋郡治だ」 鋭い眼光が、ちくり、と肌を射たように思う。一瞬だけ彼は仕事の顔を見せて、そして直ぐに仕舞った。嗚呼もしかしたらこの人は――危険な男なのかもしれない。 心中をごまかす為に、益田は、フラッと郷嶋に近寄ると、彼の食べかけのトーストを奪って食った。おい、と彼が言う。この焼き具合好いですな、益田がそう言ってケケケと笑うと、彼は呆れたように肩をすくめる。おまえは馬鹿だな、なんて言うからひッどいなあハイそうですけど、と言って益田は笑った。 責任だの関係だの、大義名分だのノルマだの―そういうものが今の益田はひどく厭だった。出来るだけ自堕落に、欲求のままに暮らしたい。ちゃんとするのはきっと性じゃないのだ。口のなかのものを咀嚼していると、郷嶋が何処か出かけるか、と言った。 「どこかって何処ですか」 「どこかは何処かだ」 何だそれは。パンを嚥下してから、益田はデートのお誘いですかと笑って問うた。郷嶋は映画でも見るか、と呟くように言う。おそらく自分から誘うのに抵抗があるのだ。それにしても映画なんてデート然としたところに連れて行ってくれようとしている。 「映画なんて高いじゃないですか」それだったらDVD借りましょうよ。ばかでかいテレビが勿体ないですよ。郷嶋がばかでかいって何だとまぜ返した。 「いいじゃないですか、僕アダラダラするのが好きなんですよう、ほら、郷嶋さんも毎日の激務でお疲れでしょうし」 本当は外出する気分にはなれなかったのだ。折角のお誘いは勿体ないが、それよりも益田は彼とゆっくり時間を過ごしてみたかった。この一週間で益田は大分郷嶋が好きになっていたから。
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