最早ない


午前中で探偵社の用事を済ませることができた益田の脳裏にふと浮かんだのは、ある古書肆の不機嫌な面相だった。
幾度かの訪問を経て、京極堂という場所に益田はだんだんと愛着を持つようになっていた。
おそらくあの古書肆は自分を見て厭な顔をするだろう、と思うと、益田は可笑しくなった。

だらだらとした坂を上る。関口からこの坂の名は眩暈坂というのだと聞いたのはつい最近のことだ。
なるほど確かに、くらくらと眩暈がしてくる。

和服姿の店主はいつものように、自室で古書の活字を追っていた。
彼は益田を見てやっぱり顔をしかめて、
「また来たな。茶なら出ないぜ」
と言った。益田は、分かってますよ今日はあの綺麗な奥様は居ないんですねと、早口に言った。
無愛想な書痴の賢妻は、どこかに買い物に出ているらしかった。

何の話題も考えていなかった益田に中禅寺はさっさと見切りをつけて、視線を手元の本に落としてしまった。
益田は部屋の中に入って、別段座布団を勧められもしなかったからそのまま座敷の床に座った。

そして何時ものように、薄い体つきをした青年は、壁をぐるりと覆う夥しい冊数の本を眺めた。
――本の寿命は人間の何百倍も長いのだろうなあ。
そんなことをぼんやりと考える。
―ここは、時間が他の場所の何倍も緩やかに流れているようだ。
無数の本が産む静かで豊かな気配たちは、常の、軽薄で騒々しい益田をゆっくりと、青年から剥離させていった。

そうして、益田は、魅入られたように、並ぶ本の背表紙を見つめる。
題名も読めないものもあったけれど、それでも随分と、清涼な心持ちがした。

「――益田くん」
中禅寺の静かな声が益田の名を呼ぶ。
現実に引き戻された益田が、はい、と言うと、中禅寺はその顔を見つめてひどく小さく、落ちたな、と呟いた。
そして聞き返される前に、桜を見ないか、と目の前の如何にも軽薄そうな青年に聞いた。
「桜ですか?」
青年が言うと中禅寺は、そう庭だ、と日本が沈没したかのような顔で肯定した。
「もう春なんだよ」
庭に綺麗に咲いているんだ君も見給えよ――と言い、中禅寺は立ち上がる。
「あ、」
古書肆を追うように立ち上がろうとして、益田はそしてたたらを踏んだ。
中禅寺の腕が驚いたように伸びてきて益田を支える。「…すみません、」
「――顔色が悪いぞ」

中禅寺は益田の顔を覗き込んで言う。
ひくり、と震えた心臓を悟られなかったかと益田にはそればかりが気にかかる。
腰に中禅寺の腕が廻って、腹の前のあたりを触られている。
中禅寺がほそいな、と言った。ああまた、ひくりだ。
「…中禅寺さんだって、痩せてますよ」
それにしたって、言いながら中禅寺が腹を撫ぜるように手を動かす。からだが強張るのがわかる。
「――骨が分かるぞ、もっと食え」
益田はすうと身体を離すと、気まずくならないようにぺらぺら喋った。
「もう大丈夫です。眩暈坂上ったからきっとその所為です。それに僕ァ、」
「益田くん、」
中禅寺が呼ぶ、その言葉に益田の頬がついにかあっと赤らんだ。可笑しいと思う。彼の顔がずっとさっきから見られていない。

彼の指で前髪を掻き上げられて益田は驚く。
顔を上げて彼を見ると、中禅寺は相変わらずの悪相でいい加減この髪を切れ、といらついたような口調で言って、ついで益田の目を直視した。
「――っ、」
目が合う。

強張った身体をあやすように中禅寺が手が伸ばして、益田を先程と同じように引き寄せる。


目をつむる益田の視界の隅で桜がひとひら、舞い込んでいた。









書き直したら違う話に
2011.5.25lastup




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