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香水は貴族の特権だった。 珍しい調合の香りを纏う人間は忽ち噂になり持て囃された。そしてその一週間後には同じ香りが売られ、少しの間世間を席巻した後に忘れ去られるのだった。
榎木津の放蕩息子の名は社交界でも有名だった。 曰く、奇人。曰く、美男子。 彼を取り巻く噂は日毎に変わった。雑誌の表紙絵を描いた、ギターを路上で弾いた、最新は探偵を始めたとか云うことだ。 彼はまた、所謂同性愛者としても有名だった。主に同好の士だとか、男娼たちの間でだ。益田の同僚にも、抱かれた、という者が何人かいた。 「変な人だったよ、綺麗な人だったけど」 彼等は皆口を揃えてそう言っていた。
口紅を引く。男娼の印である。益田は鏡を見てネクタイを直した。目にかかりそうな前髪、尖った顎、細い鼻、いつもの自分が鏡からこちらを見つめている。鋭角的な顔だな。そう思った。 時刻は夜九時。益田の勤める酒場は大分混んできていた。 酒場といってもただの酒場ではない。会員制の、酒一杯の値段がべらぼうに張るような、男色の上流階級者専用のクラブだ。益田は珍しく鍵盤器(ピアノ)が弾けるということだけで雇われたのだ。 一度休憩をとろうとトイレにたち、少しぼうっとしていると、入口の方から、ざわざわ、と騒ぎが聞こえてきた。快活な響きの声がする。益田は気になってフロアに出た。
「――さあ、何をしているのです! 僕が呑みたいといえば酒を出す、抱きたいといえば可愛い男の子を寄越せばよろしい、父がどうとかハハがどうとか、そんなことどうでもいいことです」
響き渡る、明朗な声。内容が可笑しかった。益田は漆黒のピアノに隠れるようにして、そうっと出入口のほうを覗いた。 見たこともないくらい美しい男がそこにいた。 白い肌、栗色の髪にひどく大きな目、赤い唇、長い手足。仕立ての良い服におさまった均整のとれた体つき。完璧という言葉を体現しているかのようだ。 男は自信に満ち溢れた表情で言う。 「お金ならある!」 支配人はへどもどし、かなり困っている様子だった。「しかし、当クラブは会員制で御坐居まして――」 「だから何です、僕は神だ、榎木津、礼二郎です!」 耳を疑う。この人は狂人なのではないだろうか。自分が、神? 支配人はしかし、その剣幕に圧されたようだった。お金もあると言うのだし、では後程御登録戴くということで、と噛みながら告げる。榎木津は目を細めうん、と言った。 「ああ、では、お坊ちゃま、どなたかご指名の子は――」 「そのこ」 彼は何も見ずに高らかに宣言した。支配人が固まる。 「その子だ、その…あなたが、組み敷いてる子」 「うあっ、うああ、あっはい、はいはいはい、」 益田は思わず吹き出しそうになった。こんなに慌てている支配人なんて初めて見る。 「我がクラブ一の美青年で御坐居ます、アリオですね、」 「名前なんて知らない、あとその赤毛の子と、あとはまあ、じゃあその、隣の背が小さい、茶髪の」 「チヅルとコギトで御坐居ますか?すぐお連れします、お寛ぎ下さい」 榎木津は返事もせず、ズカズカと奥の席まで進むと、音を立てて椅子をひいて座った。動作だけ見れば粗野なこと極まりないのだが、この男がすると妙な気品めいたものまで感じられて可笑しかった。
エノキヅ、レイジロウ。 あの人が。 益田は笑う。噂に違わぬ奇人の美男子だった。
高貴な方々は思い思いに時を過ごしていた。 指名した男娼の腰を撫で、顔を近づけ、高級な酒を呑む。暫し優雅なひと時を過ごした後は、別館の個室でお楽しみいただくという寸法だった。
益田には固定客はあまり多くない。鬱陶しい前髪だとか、軽口だとか、上流の方々のお気には召されないらしい。 益田は別に生活していければいいと思うから、文句はなかった。ただ、ピアノを弾けるのは嬉しかったから、やめさせられるのは嫌だった。
小曲を幾つか弾いたところで、視線を感じた。思わず振り向くと、対角線上の席に座る、例の磁機人形と目が合った。 (う、わっ…) 余りに強い視線に、怒られると思った。身を竦める。今の曲が、気に障りでもしたのだろうか。どうしよう、口の中が干上がる。 榎木津は艶のあるうつくしい声で怒鳴った。 「なかなかいいぞそこの黒男(くろおとこ)! 次はそうだな、ショパンか何かを弾きなさい」 反応できなかった益田に榎木津が、分かったのかッと怒鳴る。 「い、いえ、わかりましたっ」 緊張のあまり声がひっくり返った。褒められたのは初めてだ。黒男、と呼ばれた。でもまあ、制服は黒いし、益田は髪も黒い、ピアノも黒い。遠目からは黒男にでも見えるのだろうと後から納得した。
ご希望通り益田はショパンを弾いた。
榎木津はアリオを膝の上に乗せて、御満悦そうに益田のピアノに耳を傾けていた。横目で盗み見る度に、その美しさに陶然とした。 弾き終わると榎木津は真っ先に拍手をくれた。 嬉しすぎて顔が赤らむ。 どうもォと笑うと、こっちに来なさいリュウゾウ、と偉そうに言い榎木津は益田を手招いた。 躊躇いながら向かうと榎木津は、君は仲々筋が良いねと笑った。 (っわ…) 心臓が高鳴る。 アリオが不機嫌そうにこちらを見ていた。 「あ、どうもォ…、じゃ、僕アこれで、」 「だめだよ、ここにいなさいリュウタ、」 「ぼ、ぼぼ、僕ア、リュウイチです、益田龍一といいます」 榎木津は綾のあるふうに目を細めさせふうん、と言うと、膝の上のアリオを抱え直した。 「君もタントだろ」 「そうです」 益田が応じると、 「じゃあ決めた、今夜は君を買おう!」 榎木津は膝の上の美青年の頬を撫ぜながら飽くまでも快活にそう言った。
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20110625up |