ささめ
「ッあおきさ――…!」 強い風に泣き出しそうな声はあおられ掠れ飛ぶ。本の落丁を、眼をすがめ捜るように。 月が孕ぶ乞びとを、銀砂の渦中に見出だすように。 屋上に吹く強い風に、彼の痩躯が折られねばよいがと青木は思う。想いながら、通わせられないことばに歯がゆさを感じる。
白いマフラーは
傍目にももふもふと気持ち良さそうであった。寒さに馴れ凍えを常としたからだに春は随分、奇妙な事象というふうに思われる。 コンビニ肉まんを、ゆげをたてるそれを、益田は紙から出して青木の横で歯を立てた。細い肩に下がったバッグが重そうで、傍目にもバランスが悪い。中に詰め込まれた楽譜たちは、値も重さも随分あるのだと知っていた。 (身を、落とす。) (春に。) 益田がこちらを見上げてちょっと笑った。すこし戸惑うその感触を、青木も知っていた。空腹に任せがりりと歯を立てるには、ふわふわの肉まんの皮はあんまり頼りなさ過ぎるのだ。 「もうちょっとしっかりしたの買えば良かったのに」 「いいんです!僕ァこれが食いたかったんすよ。肉まんフォーエバーです」 「それだけ愛されて肉まんも幸せだろうね」 「まあ百五円の愛情ですけどね」 「自分で下げるなよ」 「ははは、」 言いながらあったかい、と、頬に浮かべたえくぼは本物で、青木はそれに、ふと和みのような感覚を覚えた。自分より少しだけ背の低い彼を、心持ち視線をさげて見おろす。この位置。この姿勢。 であってからまだひと冬を越していないというのに。 「早いっすねぇ青木さん」もう、二月ですよ。 益田が呟くように言う。うつむいた表情は長い前髪にはばまれて伺えない。 青木は推薦で大学に合格していた。益田も、つい先日私立の音大に受かった。将来何になるの、と尋ねたら、ピアノの先生の助手にでもなりましょうかねと言っていた。何だか可笑しくて、「助手なの?」と聞き返したら、「助手です。僕のうつわは助手で丁度いいんです」と何故か真面目な顔で返された。思わず笑った青木を、益田はきょとんとした顔で見てから、ちょっと笑って、そうしてから、青木さんは何になるんすか、と聞いた。 「警官かな」 青木が言うと、益田は、大袈裟に驚いてから、ああでもいいですね、町で絡まれたとき助けてくださいよォなんて、調子のよいことを言って、わらった。 「ちょっと待って何で同じ町内に住んでる設定なわけ?」 「運命っすよ運命」 独断とした響きにまた青木は笑う。あまりにこやかでも、善く笑うたちでもないはずなのに、彼と一緒にいると笑うことが増えていた。 「そうだね」 「もう猫も杓子もバレンタインデー・バレンタインデーで敵いませんな」 「うん」 三年まとってきたであろう、青木とは違うデザインの制服。私立高のブレザーは、公立の青木の学ランとは異なりしゃれっ気がみえた。外見の所為で軽く見られやすいのがこの益田龍一という男であるのだけれど、それでも垂れた前髪の向こうの眸は時たまひどく繊細ないろを浮かべる。気づいている。気づいていた。いつから。そんなの、分からないけれど。 青木には益田が映る今現在だけがひどく鮮やかだ。ふらふらと、向かい風に煽られておよぐのぼりのように、話題も漂っていく。 「ていうか青木さん何にも買わなくてよかったんですか?」 「んー…じゃあちょっと貰うかな」 「、」 間隙が落ちる、その隙に、道の脇に華奢なからだを追いやって、彼の掌中の、そのやわらかなものを、青木は噛(は)んだ。 「――――ッ!?」 益田の顔がバアアアッと朱に染まる。耳まで紅潮していた。切れ長のつり目をいっぱいにまんまるく広げて、おとこはそして、小さな口を数回ぱくぱくとさせた。 「だ、」 ぱっと口を片手で覆う。頭が凄い勢いで言葉を探しているのが手にとるように判る。 「だっだれも、あげるとか言ってないじゃないですか、」 「うんごめんね?」 謝ることじゃ、ないです、けどォ…消え入りそうな泣き声。綺麗に鍵盤のうえをおどる指が、青木に一口齧られた肉まんを、強く握っている。 「やめてくださいよぉ道端でこういうの…」 「うん、ごめんごめん」頸を覆う、白いマフラーにようやく触れた。 (遥か春が) (春が泳ぐようにやってきている。)
音楽室特有の黴臭さはもう身に馴染んでいて、そして。 人気の無い音楽室の椅子に益田は腰をかけた。卒業式を間近に控えた、放課後の音楽室に用のある人間は、この私立のバカ高にはおらず、それが恵みのようにも、益田には受け取られた。鍵盤を一つ弾(はじ)く。ひとつ。色彩(おと)のない画架(へや)に、とつりと色(A)が落ちる。 (吹き零れる) 何となくもう身に染みついて落とせなくなった習慣そのままに、益田は携帯を取り出して眺めた。着信ランプに一喜一憂したり。一日返事が返ってこないだけで落ち込んだり。そんな。そんなよしなしごと。そんなよしなしごとが、何故だか唐突に、三四か月前から始まった。 「――…」 益田は。 三年前ここで出会った音楽教師に惚れた。 まごうかたなき男だった。西洋人のように彫りの深い顔だち、優雅なしぐさ。破天荒な内面と。若々しくのびやかに歌声と。器用に楽器を弾きこなす姿と。健全な筋肉のついた肢体と美しい姿勢。それはどれをとっても男のものに違いなかった。どこまでいっても彼は男で、男を好きになった自分というものを、誤魔化しようもないほどだった。益田はエロ本やAVだってふつうに女ものに興奮した。ふつう…というには少し痴漢とか企画モノとかそういうシチュエーション萌えなきらいはあったけど。ふわふわしていそうなからだとか、つるんとしてそうなおっぱいとか。そういうのが好きだし、今だって、別にそれでふつうに抜ける。抜けるのに。 ――太陽みたいな男(ひと)だった。 だから猶更自分がきたなく思えた。 「…――」 先生は女生徒や女教師にモテた。益田は女に欲情する。男には興奮しない。じゃあ何で。何の価値もない自分なのに。 求めるなんてこと。 (…ムリだろ…) そのまま冷たい黒い楽器につっぷした。おこがましくて涙が出ると思う。つらい。いつしかいつだって頭の隅にあの人がいる。居て、そうして、電車を待って、参考書を読んで、向こうを見て、こちらを見て、益田の名を呼ぶ。 その尊さに心臓がとまりそうになる。心から何かあふれる。あふれたそれは、身じろぎした体になって、ふと鍵盤にふれて音を出した。 蔦がはびこりつるが絡み付くみたいに。 ゆっくりと恋が、はるが、益田の躯を縛る。 「………――」 ゆびが勝手に、いとしむみたいに、薄く小さな携帯を撫でる。こうやって近づく心を、惹かれていくということを、こんなに気持ちのいいことを、何で拒めるなんて思うんだろう。 頭も心もどうにかなってしまう。青木のことでいっぱいで、いつかこの感情は、体から溢れて仕舞うのではと益田は半分本気で危ぶんでいる。 ――それでも青木はきっと、女が好きなのだ、ろう。
白い太股が紺の短いスカートから覗く。思わず目がいってしまうのは人間のさがというものだ。ポップコーンとドリンクを両手にもった自分がなぜだか惨めだ、と益田は思った。 受験を終えた男子高校生が二人で映画を見る。それがありかなしかなんてもう益田には解らなかった。女の子が女の子の声で、女の子の肉でわらう。 ――反射的に耳障りだと思った自分を、益田は恥じた。恥じて、身を翻して、席に急ぐ。世界のすべてに蓋をする。そうすれば何かをごまかして、ごまかしてまたごまかして、その末に、二人でいられるかもしれなかった。二人でいられて、笑い合えて、あわよくば、抱き合えなんて出来るのかもしれなかった。思わずきつく目を閉じた。自分のその、よくぼうの強さに怯んだからだ。直視するには強すぎる光を見た気がした。幸福なんて恐ろしい。 「っあ、」 「通路で立ち止まんなよ」 「―…、すみません」 舌を打って通り過ぎる男をどこか茫洋と見ていた。心が酔っていて、現実に適応していない。隔絶していた。表面的には、なかなか器用な男であるという自負を、していたのに。 「―…」 携帯を見た。上映時間を過ぎていた。メール一件。見知った文字、撹乱される四つのかたち、ゆびが勝手に動いて開いた。 ――どうしたの?
「これ、コーラです」 泣きそうな顔でそんなのだされたって嬉しくも何ともなく。青木は反射的に、ひどくはりつめた表情の彼の頬に手を伸ばした。映画館の男子便所は何だかひどく綺麗で雅で、静かだ。 「どうしたの、益田くん」
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