痛くないなら病気
※学パロ ※教師と生徒
ちゅうぜんじせんせい、と。 裏返る声に名を呼ばれて中禅寺は手元の書類から目をあげた。 前髪の長いつりめの男子生徒が、どことなく緊張した面差しで、目の前の席からプリントを差し出していた。 「ああ、出来たのかね」 「そう、です」 中禅寺は古典の教師である。この――出席番号16番益田龍一は目下、出席日数不足の古典の補習中だ。問題児は半世紀前から変わらない学生服に今時の細い体を包んでいる。 中禅寺は彼の補習プリントに目を走らせた。殆ど間違いはない。 中禅寺は日頃仏頂面だの閻魔顔だのと評される顔を更にしかめ益田を見遣った。ひくん、と益田の肩がすくむ。 「…な、何ですか。どっか間違ってました?」 「いや、逆だ」 益田はほっとしたように笑う。 「はは、なら良いじゃないですか。なんで睨むんですか」 「どうしてこれだけ出来るのに授業を休むのかね」 放課後の教室には二人しかいない。吹奏楽の楽器の音、野球部の掛け声、廊下に響く誰かの笑い声。そんなものが野放図に、ふたりの鼓膜を震わせている。教室には緩やかに、傾いた陽の光が忍び入り始めていた。 益田は戸惑い、口ごもる。 「な、なんでって」 「―いや、僕は君の担任じゃないがね。だが話を聞くと、君は僕の授業だけ休むそうじゃないか」 「いや、そんな、ことは―…」 青年の声は次第と弱まり消えて行った。中禅寺は重ねてわけを問うた。益田は一度首を振り回答の義務を流す。中禅寺は軽く息をつき続けた。 「答えたくないなら無理強いはしないよ。ただ、君がこれからも僕の授業をサボりつづけるのは頂けないな。結局困るのは君だよ、益田君」 名を呼ばれ生徒は身を固くする。中禅寺は俯いた益田の、垂れた前髪を見遣りながら更に重ねた。 「授業が面白くないのかね? 言ってくれれば僕も考えるが」 今度は益田は怖ず怖ずと返した。 「あ、いや、そんなことはない、です…」 「なら出たらいいじゃないか」 すると青年は押し黙る。 中禅寺は頭を掻き頬杖をついた。旧い知人などは芥川龍之介のようだと修辞する。別に意識しているわけではなく、単なる癖なのだ。 今の子は、なんて言葉を使いたくはないのだが。敢えて使わせてもらうとするなら。彼らは酷く簡素に、言葉を遣うことを放棄する。少なくとも言葉で世界を仕切る中禅寺はそう感じる。 「――頼むから何か言ってくれないかね。言葉を遣うのが人間だ」 しかし中禅寺は益田が、友人と一緒のときは人一倍ぺらぺらと喋るのを知っている。語彙もあるし頭の回転も悪くはない。講談師じみていると思ったこともあるほどだ。そしてまたその調子の良さは他の教師にも十二分に発揮されている。どうして中禅寺だけを避けるのか。 「云っても、どうしようもないですから」 一分も待って益田の口から出てきたのはそんな言葉だった。眉が潜まる。随分排他的な言い様だ。 「そうかどうかは分からないじゃないか」 そう言うと益田は早口に返す。未だ顔はあげられず、その視線は曖昧に、机と、机の上で組んだ自分の指との間をさ迷っている。 「いえ分かります、分かるんです。だからいいんです」 「……君が良くとも」 僕が良くない、中禅寺がそう返すと益田の耳は何故か赤くなった。おそらく顔もだろうが角度の関係で見えなかったから確証はもてない。彼はぶんぶんと頭(かぶり)を振り続けた。 「いいです、ほんとに。あ、あのう、もう行っちゃだめすか、終わったでしょう、プリント」 そんなことさえ言い出すものだから、中禅寺は少々驚いた。見れば机の下で脚はそわつかされ、細い指は居心地悪そうに小刻みにうごめいている。 「……さすがに傷つくな。そんなに君は僕が嫌いかい」 それはため息混じりの台詞となった。びっくん、と大きく、目の前の細い肩が揺れて、そして益田は、やっと顔をあげた。 ――その表情が全てを物語っていた。紅潮した頬、困ったように寄せられた眉、薄く開いた唇、潤んだ細い眸。目を奪われたその隙に、違います、と益田が、殆ど泣き声で云った。 「違います、せんせい、違う、むしろ僕は、先生が――」 目を丸くする中禅寺の前で益田はそこまで言ってしまってから、しまったというように口をつぐんだ。 熱が感染ってくる。 それをごまかすかのように、西日が教室を洗い茜に染める。
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チャリを投げ捨てるように降り家の鍵を開けて靴を片方履いたまま階段を駆け上がって部屋のベッドに突っ伏した。 (有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない)思考は恐慌状態である。喉が干上がり死ぬかと思うしどこかにぶつけた脛がばかにならないほど痛い。それより何より頬が熱くて胸が苦しくてたまらなかい。ぐるぐるぐるぐる視界が回る。枕に顔を押し付けてこのまま消えればいいと願った。「うああああ」口から出るのはそんな呻きだけである。うわあああ。のたうちまわりぼすぼすマットレスに体当たりして結局ベッドの柵に思い切り頭を打ってそれは終わった。何となくくらんとした頭で、益田はベッドからずり落ちて床に尻をついた。(しにたい、しにたいしにたいしにたいしにたい)あのときの先生の顔!いったい何で、何で言ってしまったんだろう?困らせるだけじゃないか、だって同性、だってただの教師と生徒、それにあの硬派の堅物だ、天地がひっくりかえったってどうにかなるなんて有り得ないのだ、ばか、馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿!!日頃益田をパシりに使っている先輩の罵倒を思い出す。馬鹿愚か。そのとウりですね。ていうかあの人金持ちなんだからパン代くらい自分で出せばいいのに、払ってるの誰だと思ってんだよ馬鹿!ばかばかばーかばーか! 「ぅっ、っあーー…」 責任の全てをあの美しい顔に転嫁して、でもそんなことができるはずもなく。真っ赤な頬を持て余しながら益田は見慣れた自室に目を巡らせる。 勉強机、本棚、プレイヤー、雑誌、楽譜、漫画、小説、ゲームカセット、服、鞄、CD――そんなものが乱雑にごった返す中で、唯一何となくきれいな机の上に、一葉の写真が貼られていた。それは言うまでもなく、写真部の友人に頼んで売ってもらった(!)中禅寺のスナップである。我ながら変態臭いと思うけれどこれ一枚だけなのだからとそれを免罪符にする自分の姑息さも益田は承知している。いつの写真なのだろう。その中禅寺はびっくりするほど優しく笑っているのだ。ちなみに値段は500円。相場だろうか。よくわからない。険がとれた彼は驚くほど若く見える。時代錯誤な和装と人並み外れた知識量のせいで、先生は益田には結構老けて見えるのである。 鏡を見れば自分の顔はまるで林檎のようだった。喉が干上がる。心臓が打ちすぎて痛い。まっこと恋とはからだに悪いと益田は思う。
120417/
短いですね うああ… 伯林中毒さまに捧げます 相互ありがとうございます&遅くなってすみませんでした! |