くるい咲くのはだれのせい


書の香がする。埃と紙と、インクと、店主の喫う煙草の匂いと。
ずらりと居並ぶ書物に取り囲まれて益田は意図せず弛緩する。何時も不機嫌な店主は益田など無視して活字を目で追っていた。益田は自分が何かものか幽霊になったようだと思う。
書架に背をもたせ座る。
体の力を抜き、目を薄く開けて室を眺めた。何百何千の本。これらを彼はみな読んだのだろうか。枯木のような痩躯で、今しているように煙草を喫いながら、どれくらいの年月を此の場所で過ごしてきたのか。益田はそんなことをつらつらと考えている。時折和装の袖を邪魔そうにしながら中禅寺は本の頁をめくる。彼はこちらにちらとも視線を寄越さない。益田が見ているのに気づいているのかいないのか。もしかしたら益田の存在そのものさえも忘れてしまっているのかもしれない。そうするうちにとろとろと、眠気が寄せてきた。手足がやけに重い。
(浮気調査に片ついたからそれでまっすぐ此処に来た、――…久しぶりに午後空いたから、会いたいなあって思って、来たんだ。そう、なのに何だか…ムシ、されてる、し)
忙しいわけではあるまい。例えば火急の用で、今読んでいる本に即刻目を通さなくてはいけない、とか―そんな用があるものかは知らないが―もしそういうことなら、自分は恐らく即刻門前払いされただろう。
益田が訪れたとき、中禅寺はああ来たのか、と言って、無愛想ではあったが、こうして座敷に通してくれた。だから多分、話くらいするつもりはあるのだろうと、そう思ったのだけど。
(ち、がうのかな…)
いよいよ意識が霞んできた。このままでは本当に寝てしまう。最前来たときもやはり寝てしまった。そのとき中禅寺に当てこすられたのである。
益々上司に似てきたなあ、だから馬鹿と一緒にいたら移るんだと言ったじゃないか。
ああいうふうに言われるのは少し厭だ。何だかそれでは…益田が榎木津の写しのようではないか。まるで中禅寺は、何時までも自分を榎木津の助手としてしか見ていないと、そんな言い方ではないか。それが厭だった。別に彼にそう言ったわけではないけれど。そんなことないですよひどいなあとかそういうことを適当に言ったのだと思う。
ふあぁ…欠伸を噛み殺して、またちらと見遣った古書肆は微動だにせず本に視線を落としていた。
紙の匂い。ずらりと居並ぶ書物。ふと、ああ溶けてもいいな、とそう思った。自分が欠落したとして、それでもこの場所は(幾千の書物に支えられたこの場所は)きっと、微動だにもしないだろう。途端、安心感が益田を襲った。眠りが青年を包み込んで体に押し入る。
中禅寺が悪いのだと思いながら、益田はとろりと眠りに落ちた。



たまにやけにいろめいて見えるから困る。
古書肆は書物から目を上げて頭を掻いた。切れ長の目のせいか、それとも細い体の線のせいだろうか。
普段は詰まらない青年なのだけど。今時の軽薄で、けれどもまじめな。
彼自身気づいているのかどうかは分からないが、益田が用もなくここに来るのは大抵疲れているときだった。彼から何を話そうとするでもないから、中禅寺は無視して本を読む。すると青年は十分もするとすとんと寝るのだ。
以前話したときにも、本は嫌いではないと言っていたから、彼には多分此処が―この京極堂が―落ち着くのだろう。無意識にでも、何にせよ。
中禅寺は、相変わらずの仏頂面で、棚に寄り掛かったまま、前髪を垂らして眠る益田を見ながら思う。
そうでなくとも彼はこの頃演技過剰のきらいがある。榎木津の躁が移りでもしたものか。あいつのまわりにいる人間はいやでも自己の相対化を免れられなくなる。自己の認識の主張にも似る、自らの修飾を行う羽目になる。あいつのことを同化するのは並大抵のことではないからだ。そのオリジナリティに惹かれる人間もまた多いのだろうが。
―だからこうして彼がペルソナを脱ぐ場を見ると、何となく、安心する。
徒然と中禅寺秋彦は思いを巡らす。ついでに視線も巡らせば、庭の桜が目に入った。



益田が目を覚ますと、中禅寺は読書をやめて、縁側に出て柘榴を撫でていた。
(ね、寝てた…)
ごしごしと目をこすり伸びをすると、中禅寺は物音に気づいて振り向いた。
「よく寝たようだね益田くん」
「はぁ…すみません」
簡単に言葉を交わしながら益田も縁側に出た。胡座をかく中禅寺の横に座り込む。彼は柘榴を、骨張った手で、さして可愛がるふうでもなく撫でていた。にぃぃ、と不如意そうに猫が鳴いても気にかけていない。
益田は庭の桜を見る。なかなか綺麗に咲いていた。
中禅寺は特に何も言わなかった。いつもは喋り過ぎるほどなのに。いや、自分も人のことは言えないけれど。
風にそよぐ桜を、ただ並んで眺める。その沈黙は何だか気持ち良くもあった。

―――世の中に。
ふと、いつ読んだかも分からない和歌が頭にのぼった。意識する前に口をついて出ていた。
「世の中に、たえて桜のなかりせば、春の心は…」
そこで益田は少しつまる。後をひきとったのは中禅寺だった。
「―春の心は、のどけからまし、だね。百人一首にもある、伊勢物語第八十二段、渚の院で詠まれた歌だ」
「どういう意味でしたっけ」
中禅寺は視線をゆるりと益田に流す。探偵助手の心臓が跳ね上がったのはその悪相のせいだけではないだろう。古書肆はそのままの意味さと言い煙草をくわえた。桜の枝振りを目をすがめて眺める。
「この世の中に桜がなかったのなら、春の人の心はもっと穏やかだったろうと――そういうことさ」
「春の人の心は、ですか」
「ああ」
桜に動かされる心など、もう現代人は失ってしまったかもしれないがね。中禅寺はよどみなく言いながら煙草に火をつけた。益田は僕は元々花より団子のほうですからと適当に返して、中禅寺の膝の上の柘榴に手を伸ばす。腰辺りの毛を撫でると、彼はいやいやと言うように鳴いた。中禅寺が微かに笑う。
「嫌われているようだね」
「みたいですね」
「気にする必要はないさ。元々愛想のない猫なんだから」
喉を撫でる。身をよじらせながら柘榴はそれでも逃げようとはしなかった。中禅寺がすっと手を伸ばして益田の手を掌で覆う。
益田がびくりと身を震わせた瞬間に。
黒猫はするりと逃げた。
尾が一瞬益田の指を掠めていった。しなやかな動きで柘榴はあっという間に姿をくらました。

煙草の煙り。
中禅寺の指。いつもは書物の頁に乗せられているはずのそれが、自分の手に触れているということが、益田は上手く信じられない。
骨と皮だけのような彼の指を益田は見つめた。中禅寺。中禅寺?
風が吹く。桜の枝が揺れる。花びらが舞う。散ってゆく。目線だけを上げて益田は中禅寺を見あげた。
中禅寺は再び微かに笑う。顔色がよくなったと言って桜に目を移した。そして彼はついと手を引っ込めて、腕を組み直した。煙草を噛みながら彼は続けた。
「来る分は構わないから」
そうしてなおも見上げる益田に、居心地が悪そうに身じろぎながら結ぶ。
「あまり無理はしないことだ」
愛想のないのは飼い主譲りではないのだろうか、不敬ながらも益田はそう思ってしまった。でも次には思わず頬が緩んでしまって慌てて顔をふせる。
(どうしよう、どうしよう……嬉しい)
こんなに些細なことでこんなに嬉しくなるなんて。ダメじゃないのか。なんだか、そんな気がする。
ダメな気がする。
更には段々恥ずかしくなってきてしまった。なんだかばかのようだった。顔が赤らんでいく。何なのこれ、何なのか、まるでこれは。

――桜がはらはらと舞う。

穏やかな春の日の話である。



120310//

桜と柘榴とちゅうますと
中益は両片想いくらいの甘さが好きです




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