最愛なる我が師



自身に厳しく、常にクールでいること。それは氷河が日頃から心がけている、師の教えの一つであった。
…しかし、幼い頃に母を亡くした悲しみが胸を裂く夜、氷河はその教えを守ることが出来ない。

『甘いな』

師、カミュの声が耳奥で何度も響いた。そんな甘さでは聖闘士にはなれない、と。
「わかっているさ…」
悲しみに襲われようとも、もう取り乱すことはない。この数年間、凍てつく大地で鍛練を重ねずいぶん心も身体も成長したのだ。けれど師匠カミュから見ればまだまだ身心共に甘さが抜けないぬるい弟子、といったところらしい。
「…マーマ」
夜、暖かい毛布にくるまり目を閉じると…蘇る母の記憶が氷河をクールでいさせてくれなかった。
「眠れないのか、氷河」
扉の向こうから師の声が届く。
「…もう寝ます」
カミュのいる部屋からほのかに漏れる暖炉の灯りが柔らかい。
不思議と心を落ち着かせるような灯りだった。
こうしていればいずれ眠りに落ちるだろうと、氷河は無理矢理に目を閉じた。
と―、
扉の方から気配を感じ、閉じたばかりの目をうっすら開いてみる。
先程まで眺めていた橙の灯りに写し出されたシルエットが、こちらへ歩み寄るのが見えた。
「カミュ…」
その影はもちろん、カミュであった。
「きちんと睡眠をとることも修行のうちだ。わかるな?」
「すみません…。目が冴えてしまって」
「また母親のことを考えていたろう」
氷河の寝ているベッドへ腰を下ろすカミュ。
「疲れはてて眠り落ちるくらい鍛練を重ねるんだ。余計なことなど考えなくて良いように」
我が師はすべてお見通しのようで、氷河の考えることなど大抵決まっていると言わんばかりに目を細めた。
「最近は修行のことだけに集中していたのですが…何故か、今夜は…」
最後まで言い終わらないうちに、カミュの右手が氷河の額に当てられる。
「…カミュ?」
じんわりと、伝わる温もり。その手はゆっくりと頭へ流れ氷河を優しく撫で上げた。
「眠れぬ夜はこうしてやろう」
囁きはとても穏やかな声色。修行のときに聞く厳しい声が嘘のようだ。
今夜のカミュは…何だかおかしい。こんなことをされたのは初めてで、戸惑ってしまう。
「カミュ…どうしたのですか?」
思わず口に出した疑問。
「…ん?何か変か?」
「普段はこういうことしないでしょう…?」
カミュの手がこんなに温かいなんて、初めて知った。
「嫌だったか?」
「そんなこと…ないです」
…こういうときどういう反応をすればいいのかよくわからなかった。困った末、なるべく平静を保ち反応を返す。
「そうか。嫌でないなら大人しくしていろ」
……ありがとうと、礼を言った方がいいのだろうか?
眠れない氷河のためにカミュはこうしてくれているのだ。どうしようかとあれこれ考えているうち、温かい手が氷河の頭を離れる。
「もう…眠れるな?」
言われて気づく。
先ほどまで寂しさに溢れていた胸が不思議と静まっていることに。それどころか、いま氷河の胸の中には気恥ずかしい想いが込み上げていた。
「カミュ、その…ありがとうございました」
「私は私のしたいことをしたまでだ」
気にするな、と師は優しく微笑んだ。
母を亡くして以来こんなに温かいものに触れたのははじめてだった。とても…嬉しかった。そう伝えたいのに、うまく言葉にできない。そんな不器用な氷河のことでさえ、カミュの微笑みは理解してくれているようだった。
「さあ、また明日だ氷河」
「はい。おやすみなさい」
カミュが最後に見せたのは師としての顔。その中でふと見える穏やかな表情に氷河は心奪われた。
思えば、このときからだったろうか。師に焦がれるようになったのは。


抱いてはいけない想いは日々募るばかりで。




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