部誌9 | ナノ


逃げも隠れもしたくはないが



実家が嫌いだ。フォローをしておくとしたら、僕は家事手伝いが嫌いなわけじゃない。のほほんとした父さんも、母さんも、姉さんも好きだ。旅館もお風呂も好きだ。僕の部屋にはお気に入りのコミックだって置いてある。だけど、僕は実家が嫌いだ。

僕には兄がいる。ちょっと、他人と比べると結構、かなり有名人だ。なんたって、フィギュアスケートの選手で、去年はすごい大会に出た。世界のトップを決めるというその大会での結果は芳しくなかったけど。
ざまぁみろ、と僕は思った。
僕は、兄が嫌いだ。実家の連中はみんな、兄が好きで、あっちこっちに兄の応援グッズやらなにやらが置いてあるせいで、実家は落ち着かない。
そりゃあ、身内贔屓なしにも、兄を応援したくなる気持ちはわかる。僕の兄、勝生勇利のスケートは見る人を惹きつける魅力がある。小さい頃はそれなりに兄に憧れて一緒にスケートを滑ったりした僕だけど、兄のようには滑れずやめてしまったから。ちょっと齧ったくらいの僕が、兄のスケートの腕前がどの程度かなんて、公式試合の結果でわかる程度しか知らないのだけれど。勝生勇利の弟だとわかれば、サインを求められたり、いろんなことを聞かれたりする弟としては兄がどれだけいろんなひとの期待を背負っているか、よく分かる。
それでも、僕は兄が嫌いだ。
嫉妬と言えば、嫉妬だけれど。でも、僕は兄に勝とうなんて思ったことは一度もない。兄は僕のあこがれで、それを越えようなんてビジョンはなかった。
その憧れの兄が、僕に無いものを僕が欲しいものをすべて持っているくせして、卑屈で、弱虫なのが、何よりも嫌だった。
『なまえくんはすごいねぇ』
なまえが、ちょっとピアノが上手く弾けたら、兄はそれはそれは大層なことのように褒めた。一事が万事、ちょっとだけ、何かが上手く出来たら兄は僕を褒めて、自分は何も出来ないみたいなそんな顔をする。
卑屈かと思えば、兄はとても自己中心的だ。
いつの間にか犬を貰ってきたことだってそうだ。僕がどんなに犬が欲しいって言ったって、振り向きもしなかった両親が、兄が飼いはじめた犬をちやほやして。その犬は兄のことが大好きだと、僕の目からもわかったのに、兄は大抵『ヴィッくんはなまえくんのことが大好きだね』といってニコニコ笑う。意味がわからない。兄は僕が犬を飼いたかったことを知っていたからそんなことを言ったのだろうけれど。はっきり言ってズレている。フィギュアスケート選手の名前の付いたトイ・プードルなんて、僕は別に欲しくないのに。僕が飼いたかったのは柴犬なのに。人に向ける親切さまで、自己中心的だった。
友達が居ないのも納得だ。
プライドは高いくせに、負けず嫌いなくせに、卑屈で、意固地。
優しいのに。脆いのに。怖がりで排他的。周りには人がいっぱいいるのに、兄はそれを友達だと認めない。兄の審査には、彼らは友達として認められないのだ。
そんなことだから、高校を出て大学に入って、実家には一切戻らなかったし、就職してそのまま帰らないくらいのつもりで居たのだ。
あくまでも、つもりはつもりで終わった。
僕の趣味は、バイクだ。大型二輪の免許をとって、マシンをバイトで貯めた金で買って、ツーリングに出るのがちょっとした趣味だった。
そして、この趣味にはつきものだけれど、僕は見事に事故った。それは見事なスライドで、よく命があったものだという、九死に一生スペシャルな事故だった。
奇跡の生還を果たした僕は、おおむね後遺症は無いというお墨付きの上で、両足と、利き手と、その他諸々を骨折し、苦しい苦しいリハビリを抱えながら、介護のため実家に送還されることになったのだ。
このシーズン後半の兄の成績はひどかったというのに、相変わらず勝生勇利の応援一色な実家で僕がまずさせられたことは、誓約書を書かされることだった。
『二度と大型二輪には乗りません』
その文面の紙に、サインをするまで飯抜きだった。普段は甘い両親がこの時は鬼だった。虐待だったと思う。しかし、自業自得で怪我をした僕に、選択権は無く、数時間おきに作られ目の前に置かれるカツ丼の前に、僕は虚しくその誓約書にサインをした。

大学は休学だ。「死んでもおかしくなかったのだから」と涙ながらにいつもはのほほんとした母に訴えられてしまえば、頷かざる得ない。し、正直なところ、リハビリは徐々に行っているものの、かなりまだ痛い。
今から行っていいよ、と言われても遠慮するだろう。というか行けない。行ける状態ならそもそも実家に帰ってきたりしない。実家、ゆ〜とぴあかつきはバリアフリー仕様になっていない。必然的に何をするにしても誰かの介護が必要な状態に死にそうだったが、それでも、一人暮らしは無理なのが現実だった。
痛みがそこそこマシになってきた僕にもたらされたのは、悲しいお知らせだった。
『速報:兄、帰省す』
頭の中で点滅スクロールする文字に、僕は正直、逃げ出したくなった。が、生憎、逃げだす術はなかった。
GPファイナル以降、愛犬ヴィクトルの死もあったのだろう、ガタガタだった兄は、大きな大会に出られず、コーチとの契約も解消し、大学も卒業し、進退未定で帰ってくるらしい。母や父は「家族みんながそろうね」と喜んでいるが、正直なところ、ギプスは取れたものの、リハビリ真っ最中で置物に成り果てている僕からしてみれば、嬉しい部分なんてこれっぽっちもない。
『お兄ちゃん、なまえくんの怪我のこととっても心配してたよ』
なんて言われれば、どんな顔をして会えばいいのか、わからないのだ。九死に一生で、リハビリは厳しいだろうけれど、後遺症もほとんどないだろうと言われた僕だったけど、事故後救急車で運ばれて集中治療室に入ったのだ。僕の意識は、しばらく戻らなくて、母が旅館の仕事を休んで付いていてくれた。

その事故の日は兄の大事な試合の前日だった。

疎遠だったとは言え身内の事故の話だから当然、兄にも連絡が行った。国内での試合で、偶然、僕が入院した病院が近くで、両親が到着する前に真っ先に病院に駆けつけたのは兄だった。電話で両親に諭されて、兄はすぐにホテルに戻ったと聞いたけれど、多分、きっと、調整とかいろんなものに差し障ったはずだ。
兄は、メンタルがとても弱い。きっと心配しただろうと思う。犬の死がなければまだましだったのかもしれないけれど、きっと、兄の脳裏には死という文字が焼き付いていたはずで。
それがなくてもボロボロだったのに。僕は兄が嫌いだし、僕よりずっとずっと立派な兄のことを僕が心配しても仕方ないけれど、僕が、兄の足を引っ張った、という事実だけはどうしようもなかった。
家族はみんな、僕のことを責めなかった。多分、兄も僕を責めないだろう。それがわかるから、余計につらくて、益々、会いたくなくなる。
その僕の心理を悟ってか、僕が少し外に出られるようにという配慮でつけられたスロープがいつの間にか撤去されていたり、リハビリ用の松葉杖が姉に申告しないと貸し出されないようになっていたり、そんなことをしているうちに、兄が帰ってくるその日が来た。

3月。満開の桜が春の陽気で包まれていた。
縁側に置かれた椅子は、帰省してからの僕の専用席だった。陽は傾いて、オレンジ色に微かに染まる桜を見ながら軽く指先を動かす。暖かくなってきたとはいえ、日差しが傾くとまだまだ寒い。ぼんやりと庭の桜を見上げながら、僕はいろんなことを考える。万が一ここで、僕が逃げ出せたとして。兄はきっと、傷つくのだろうと僕は思う。本当は僕が悪いのだから、兄が傷つく必要は何一つないけれど、傷つくのは兄だと、僕は断言できる。
兄はきっと、事故のせいで大会で失敗したと僕に思われるのが、嫌なはずだ。頑なに自分を守る殻を厚くしているくせに、余計なことまで背負い込もうとする。
ここは、何食わぬ顔をして「あ、帰ったの」とだけ言うのがいい。大学を卒業して進退未定の兄はここに留まるかもしれないが、僕がここを出ていけばいいのだ。
兄はスケートを続けるだろうか。
スケートしか持っていない兄が、他のことをしていることが想像できない。
『ぼくも、スケート、やめるから』
そう言った兄に『やめて何するの? 他に、勇利にできることがあるの?』と言ったのは僕だった。泣きながら殻に閉じこもるように、何も出来ないと、そう言った兄を見下ろしながら、僕は兄が嫌いになった。
「なまえくん」
声がした。かすかに線香のにおいがした。ちらりと振り返ってその顔を見る。太ったな、とただ思いながら、相変わらずだなと鼻先で笑った。
「……帰ってたの」
「うん。……リハビリ、進んでる? なまえくん、ちっともメール返してくれないから」
兄はそんなことを言いながら、すたすたと僕のそばまで歩いてきて、隣りに座った。
兄が、あの大会以降あまり両親と連絡をとっていなかった、と知ったのはこっちに帰ってきてからだ。毎日のようにメールを貰っては無視していた僕は、自分は兄と連絡をとっていると言い出せないままだった。これをぽろりと両親に漏らされると、少し困る。僕は顔をきゅっとしかめて、無言を返した。
「あのね、なまえくん。……これ」
勇利はそういいながら、僕の目の前に何かを差し出した。僕は動く方の手で、顔をしかめたまま、それを受け取る。何か、お土産だろうか、くらいにしか僕は思っていなかった。
「……っ!?」
ぽろり、と、兄の手からこぼれ落ちたのは、お守りだった。見覚えのあるお守りは、端が擦り切れて、微かに茶色い染みがある。
このお守りを、知っている。
もう無いものだと思っていたものが、目の前に現れる。幽霊を見ているような気分だった。
「……なまえくんが、折角買ってきてくれたのに、……ごめん。負けちゃった」
そう言って、勇利は儚く笑った。
あの、事故のあった日に、他でもない僕が買ったお守りだった。泣きたくなる。泣きたくない。どんな顔をしていいか、わからない。
気まぐれだった。兄に渡す気なんて、これっぽっちもなかった。ただ、GPFを見て、むしゃくしゃして、買いに行くと決めてバイクを走らせた。
目覚めたときには荷物の中にはなくて、事故現場で落として失くしたものだと思っていた。
「……別に、勇利のじゃなかったんだけど」
そう言いながら僕はそれを勇利から隠すように掴んだ。
「そうだったの」
子供にいうみたいに、優しく兄はいう。きっと、嘘だと気づいているけど、そういわない。僕は、兄のこういうところが嫌いだった。
これを、今返す兄の気持ちがわからない。
スケートを続けるなら、持っていたっていいはずなのに。
そう思いながら僕はそのお守りを、ポケットの中に入れた。
「じゃあ、ぼくは温泉入ってくるから」
そう言って兄は立ち上がった。ポケットの中で、お守りを掴んだまま、僕は迷う。今呼び止めて、このお守りを、兄に投げつけるべきだという、そんな気がした。
「……ゆ、うり、」
切れ切れの声だった。その声に、歩いていこうとした兄が足を止める。振り向かない。
「……なに」
強張った声だった。何かを構えるような声のまま、兄は僕に背を向ける。
その背中が、逃げ出してしまいたいと訴えていた。
「バカ」
「……なにそれ」
兄は気が抜けたように笑う。その顔を見て、僕は腹がたった。逃げてしまいたいと思っていたのが嘘のように、兄のそばに居なければならない、と、そんな気がしてくるのが、馬鹿馬鹿しいと、そんな風に思った。

日が陰る。オレンジの空が、藍色に染まっていく。

僕が、このお守りを勇利に返すことができるのは、もう少し先の話。



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