部誌9 | ナノ


そのミチの先



それは確かに、迅悠一の失策だった。
じくじくとわき腹が痛む。そこから流れ出ていく血液が、体温まで奪っていく。

「あー、くそ……」

未来視のサイドエフェクトは、万能そうに見えて、そうでもない。変遷していく未来の中で、希望する未来に続く過程を読み違えてしまえば、思いもしない未来にたどり着くこともある。今回もまさに、それだった。

「これ、どれに続くん、だ……?」

意識が混濁しているためか、トリオン切れのためか。今いる現在が、サイドエフェクトにより予知したどの未来に当たるのか、判別できない。視界が霞む。もう駄目かもしれない。鈍い思考でそう考えるも、唇を噛みしめ、かつての恩師だった黒トリガーを握りしめる。

こんなところで、終わる訳にはいかない。
何よりも、最上さんを、この世界に置いておけない――

そんな想いとは裏腹に薄れゆく意識に、悔しさに涙が零れた。目の前が真っ暗になる瞬間、ガサリと物音が聞こえた気がした。

「……どうすんだよ、コレ」

呆れたような、男の声も。




今回の遠征は、そもそも参加する気はなかったのだ。
界境防衛機関――通称ボーダーでは、侵攻してくるトリオン兵に対抗する手段のひとつとして、その技術の一端を解き明かすため、秘密裏に近界に遠征している。その先にある国家でトリガーを持ち帰ることで、トリガー技術の向上を図っていた。
遠征部隊はA級のチームから選ばれる。S級であり、チームを組んでいない迅が今回の遠征に参加したのは、本部からの鶴の一声に他ならない。迅が残っていては不利益になるようなことがあるのかと思ったが、純粋にその能力を買われての参加であり、裏に何かある訳ではなさそうだった。万能ではないが有用な先見のサイドエフェクトにより、渋々参加に納得したのだが――

(まさか、はぐれるとは思わないし……)

本来の遠征では、遠征艇にカメレオンの技術を用い、ステルス状態にすることで本陣とし、そこから周辺を探ることから始まる。トリガーは特殊技術であり、戦闘技術だ。そこいらの街の人間が持っている訳ではないので、まず何かしらの組織を探すところからスタートするのだ。
今回の遠征に関して、迅のサイドエフェクトは、何故だか正常に反応しなかった。いくつも分岐されていく未来視で、ぼやけた未来がいくつかあったのだ。普段から明確に未来について語ることをしない迅なので、「未来視があやふやなところがある」という進言も、重大なものと受け入れられなかった。
そもそもが迅抜きで今まで遠征をこなしてきた傑物ばかりなのだ。迅の未来視があろうがなかろうが今までと何も変わらない、という判断だった。何度か遠征したことのある国家であることと、S級に対応できる部隊の集まりだということもあり、多少の油断があったのは確かだろう。迅がどれだけその危険性を口酸っぱく言い聞かせても、曲者揃いのA級隊員たちはまともに聞きやしない。

そう。その結果が、本隊とはぐれてしまう、今の現状だ。
はぐれてしまったのが迅のみなのか、バラバラに分裂してしまったのかは定かではない。襲撃にあうことまでは予知できていたので、そこまではなんとかなった。そこから先が問題だ。わずかに見えていた未来視に沿って誘導したはずが、何のトラブルがあってかこんなことになっている。確かあれは――

「なんだっけ……」

口にしたはずの言葉は、掠れてうまく音にならなかった。囁きにも満たなかったにも関わらず、喉が痛い。ケホリと咳をして、眉を顰める。そこでようやく、自分の目が開いている事実に気付いた。
どこだ、ここは。鈍い思考が正常になるにつれ、霞む視界が段々晴れていく。その先に見たこともない部屋が映って、迅は思わず体を起こそうとして――激痛に身を捩らせた。

「――ッ!?」

「あんまり無茶すんなよ。まだ治ってねえんだから」

視界が暗くなる。目元に触れるかさついた感触と温もりに、手のひらで目隠しをされているのだと判った。混乱に体を硬直させる迅を宥めるように、親指が額の生え際を撫でた。途端走ったぞくりと肌が粟立つ感覚。ぶるりと体を震わせれば、ぬくもりが離れていく。再び視界を取り戻した頃には、痛みは引いていた。

「あ、れ――痛くない。それに、あんたは」

迅を見下ろしていたのは、迅と変わらないか、それより少し年嵩の青年だった。黒髪に浅黒い肌。シャツ越しでも、その体が鍛えられていることがわかる。風呂上りなのか、濡れた髪から水滴が滴り落ちている。それを首にかけたタオルが吸い取っていて――ぎょっとして身を引いてしまった。

「あ? ……ああ」

上に掛けられていた毛布を抱きこんでベッドの上で距離を置く迅に、その理由を察したらしい。呆れた溜息と視線が痛い。いやでもびっくりしちゃうじゃん? びっくりしちゃうじゃん? 男同士だけどさあ!?
そもそもが異常に色っぽいのが悪いと、迅は思う。短い髪から垂れた滴が首を伝ってるのとか、めっちゃエロいじゃん! 大層な男前だし! いやだからどうって訳じゃないんだけど!
もう誰に言い訳しているのか、迅自身にも判っていない。とめどなく思考は流れていくが、口は音もなく開閉し呼吸するためのものに成り下がっている。その間に男は頭をタオルで拭き、上着を羽織っていた。あちぃ、と文句を言っているので、迅への配慮なのだろう。申し訳ない気持ちになりながら、毛布から手を離す。

「え、と、ごめん」

「別に構わねえよ。混乱してたんだろ、無理もねえ」

男は苦笑を浮かべ、ベッド脇に置かれた椅子に腰かけた。サイドテーブルに置かれた水差しに手を伸ばし、コップに水を注ぐと迅に手渡してくれる。有り難く受け取り、水を口にすれば、思っていた以上に喉が渇いていたらしい。一気に飲んでしまって、男が再度注いでくれたものも口にする。

「警戒心がねえな」

目覚めたばかりのせいか、握力がなく両手でコップを持つ迅に、男は溜息を吐いた。なんだか呆れさせてばかりいる気がする。喉を潤して一息つけば、男はコップを迅から受け取り、またサイドテーブルに置いた。

「殺す気なら、おれはもうここで息をしてない。そんなまどろっこしい真似する?」

「自白剤とか、他にもあんだろ。催淫剤とかな?」

にやにやからかってくる男に、頬が熱くなる。性格の悪い男だ。勘違いしてしまったのは悪かったとは思うが、ここでそのネタを持ってこなくてもいいと思う。
そんな場合じゃないだろ、と変に意識してしまいそうな自分に活を入れながら、迅は自身を落ち着かせるためにも周囲を見回した。
今いる寝室は男のものだろうか、様々な紙が部屋中に貼られていた。机の上も紙で散乱し、足元のごみ箱にはくしゃくしゃに丸められた紙が山を作っている。壁に沿って設置された本棚には所狭しと本が詰められていた。クローゼットの前には洗濯したのだろう服が畳まずに積まれていて、生活感がこれでもかというほどあった。開けられた窓の向こうは森のようで、迅は今いるこの場所が人里離れた場所なのではないかと予想をつけた。

自分のいる場所の把握ができたところで、迅は男に視線を向けた。出会ったばかりの男ではあるが、痛みのない体からして、恐らくは治療してくれたのだろうことがわかる。敵意がないことも、今の時点ですら理解できる。目に見える場所に迅のトリガーが安置されているからだ。やろうと思えば迅はすぐさまトリガーを手に取り、男の首筋にその刃を当てられる距離なのだ。男がどれほど強かろうと、あえて無駄なリスクを負うとも思えない。

「……ありがとう」

謝意の言葉がするりと迅の口から零れる。男は薄く笑い、構わないと腕を振った。

「どうせひとりで暇してたところだ。暇潰しにはちょうどいい」

「ひどいなあ……でも、いいのか?」

迅の隊服に気付くところもあったはずだ。現在いる国家には幾度となく偵察に来ていたし、トリガーの情報を何度も掠め取ったこともある。ボーダーの隊服は、隊ごとに変化はあるものの、基本的なデザインは統一されている。国家をあげて警戒すべき対象であると周知されていてもおかしくないのだが。
迅の含みを持った言葉に気付いたのか、男は皮肉げな笑みを浮かべていた。厭世的ですらあるそれに言葉を無くす。

「心配しなくても、お前はちゃんと仲間んとこに戻してやるよ」

迅を見る藍色の瞳は穏やかなのに、その瞳の奥にあるのは深い闇そのものだった。

「痛みは阻害してやったけど、怪我自体は治ってねえんだからもうちょっと寝とけ」

迅の肩を押してベッドに倒すと、男はそのまま席を立った。戸惑う迅の目を、男の大きな手のひらが覆う。先ほどとは違い、段々と体が重くなっていく。これまでの経験から、まだ自分の体がきちんと完治していないのだとわかる。では今までのあの体の軽さは、一体何だったのだろう。男のサイドエフェクトか何かなのだろうか――

迅が意識を保っていられたのはそれまでで、迫りくる闇に浚われるように、眠りに落ちていった。



翌日、目覚めた迅の目の前には、典型的な洋風の朝食が用意されていた。クロワッサンとカフェオレ、野菜スープにベーコンエッグ。ここはホテルかおしゃれなカフェかと考えてしまうくらいには上等だ。
美味しそうな匂いで目覚めた身の上からすれば、このまま食べてしまいたい。けれどこれは果たしてほんとうに自分に与えられたものなのかどうかわからなくて、思わず唸り声をあげてしまった。何せ迅は怪我人なのである。怪我人に与えるようなご飯ではない気がする。

「あ、起きてたか。それ食っていいぞ」

「あ、ありがとう……」

間違ってなかった。迅のものだった。
おれ、怪我人だよな? どう見ても病人食じゃないけど、大丈夫なんだろうか。
一抹の不安を覚えたが、腹は減っているし、わき腹に傷を負ったとはいえ胃を破るような傷ではなかったはずだ。何かトラブルが起きた時はその時対処しようと決め、食べるために体を起こす。その間に男は迅の元まで歩み寄り、迅の背中にクッションを当ててくれる。痛みが少ないとはいえ、鈍く痛むのは変わりない。ありがとう、と告げれば気にするなと返ってくる。そのまま足の低いテーブルが太ももの上にシーツ越しに設置され、さらにその上に朝食セットが置かれた。至れり尽くせりである。

まずは、と口にした野菜スープは優しい味がした。野菜は柔らかく味が染み込んでいる。遠征艇の中で味気ないレーションばかりだったので、今の迅にとってはたまらないご馳走だ。次いで食べたベーコンエッグは半熟とろとろ。クロワッサンはサクサクで、口に含めばバターが口の中いっぱいに広がる。口直しのカフェオレはミルクたっぷりで、何から何まで美味しくて、フォークを握る手も口も止まることがない。
すべてを食べつくし、空になった皿を見て溜息が漏れたのは、満足感と物足りなさからだ。お腹は満たされたけれど、美味しいものはもっと食べたい。いじましくフォークを咥えて皿をじっと見つめていると、隣からくつくつと笑い声が聞こえる。振り返ると迅を助けた男が笑っていて、そういえばいたのだと、羞恥に襲われた。飢えていたとはいえ、がっつきすぎにもほどがある。

「そこまで喜ばれると作り甲斐があるな。お代わりはいるか?」

「あー、めちゃくちゃ美味かったから、もっとって言いたいんだけど、腹いっぱいだからやめとく。ありがとう…ええと」

「そういえば自己紹介もまだか。俺はなまえ。お前は?」

「迅。飯もだけど、助けてくれてありがとう、なまえ」

差し出された手を握れば、男の――なまえの手のひらは固かった。戦う人間のものではない。これは、物を作る人間の手だ。
自分を助けてくれた人間が戦闘に特化していないだろうことに安堵し、それを悔やんだ。恩人相手になんて失礼な考えだ。しかし口に出してもいないことを謝罪するのもおかしいので、誤魔化すように笑う。迅の思考に気付いたのか、苦笑を返すなまえに、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「治るまでもう少し時間がかかるからな、ゆっくりしていくといい」

「いや、ありがたいけど本隊と合流しなきゃ……おれ、どれだけ寝てた?」

「2日くらいか?」

「そんなに……」

思っていたよりは短い期間だが、それでも十分な時間だ。まさか置いて行かれることはないだろうが、それでも不安は残る。遠征艇のトリオンとて、無限ではないからだ。帰還に必要なトリオン量によっては、置いて行かれる可能性もあった。
迅の有するトリガーは、かつて恩師、最上が残した黒トリガーだ。彼そのものといってもいい黒トリガーはボーダーの有する汎用トリガーよりも強力なものだが、欠点が一つあった。緊急脱出機能がないのだ。そのために傷を負った時点で遠征艇に戻ることもできず、なまえに世話になっている。今の迅の体は生身で、換装するにはもう少し時間がかかりそうだった。

「連絡手段はあるのか?」

「換装すればなんとかなるんだろうけど……今はトリオンが不足してて」

「そうか」

どうすればいい? どうするべきなんだ?
焦るばかりで思考は働かない。サイドエフェクトを駆使しようとしても、混乱と焦燥に邪魔をされて碌な予知もできない。
空になった皿を凝視していると、なまえがお盆を乗せたローテーブルごと取り去ってしまう。乱雑な机の上を適当に均し、平面を作るとそこにローテーブルを置き、迅の元まで戻ってくる。礼を言うべきなのだろうが、それどころではなかった。かけるべき言葉も口にせず、唇を噛みしめる迅の顔に影がかかる。気付けばなまえがベッドに腰かけていた。覆い被さられる、と思った瞬間にはなまえの顔が目の前にあって、もっと近づいて、唇、が――

「ンッ」

顎を掴まれ、口を開くように誘導される。元から半開きだった迅の口内になまえの舌が侵入して、暴れ回る。ただでさえ混乱していた脳内が更にこんがらがってしっちゃかめっちゃかになってなまえの成すがままだ。我に返って抵抗しようにも顎を掴んだまま後頭部に手を置かれ引き寄せて固定してくるもんだから、厚いその舌を噛んでやることもできない。空いた手でぶん殴ってやろうとしても距離が近すぎて胸しか叩けないし、鈍いだけだった痛みが悪化するし、動き回る舌に翻弄されて力が抜けるしでどうにもならない。結果なまえ縋り付くような形になってしまって、業腹ものだ。
最後の仕上げとばかりに迅の舌を吸ったなまえが、二人分の唾液を流し込んでくる。若干の不快感を覚えながら、早くこの行為が終わって欲しくて促されるままに飲み込む。ごくり、と迅の喉が鳴ったのを確認してから、なまえの舌が迅の口内から出ていく。口の端から零れた唾液を親指で拭われる。荒い息のままその仕草にぼんやりと見入っていると、なまえが迅に視線を返した。

「で?」

「ぅえ、は、ぁに」

舌ったらずになってしまった返答に羞恥を覚える。真っ赤になってしまった迅から離れ、机の前の椅子を引っ張ってきてベッドのそばに座るなまえは迅とは違い余裕そのものだ。なんとなく納得いかない気持ちを覚えながら、なまえの言葉の続きを待つ。

「トリオン。回復してないか?」

「え? あ……ほんとだ」

近くに置かれた迅の黒トリガーを握り、言葉もなく換装すると、いつもの隊服を着た状態になる。途端に飛び込んできた仲間からの通信に目を白黒させる。なまえを見れば言葉もなく頷いてくれたので、迅の今の状況を判断しているのだろう。そのうえで地図を用意し、現在地を指差してくれるのだから、ありがたくてたまらない。本隊の人間に状況と現在地を伝えると、今すぐ向かう、と通信が切れた。
急激な展開に唖然としていると、くっ、と笑い声が迅の耳を打つ。

「まぬけ面」

「えっ、いやだって、ええ!?」

一体全体、何が起こっているのか。混乱に頭痛さえしてきそうだ。
換装したおかげでわき腹の痛みを忘れていられるのは幸いだった。でないと今以上にこんがらがっていそうな気がする。

「あんた、一体……?」

一番の疑問を口にすると、なまえはどこか寂しげに笑った。

「――さて? 何なんだろうな。俺にもわかんねえよ」

迎えが来るまでの間、暇だから昔話でもしようか。
そのなまえの提案に、迅は頷くことしかできなかった。
過去を語るなまえは、淡々としていて、どこか他人事のようだった。

記憶の始まりは水槽の中。緑色の水の中で揺蕩いながら、男を見下ろしていたこと。
男は幼いなまえを水槽から引き揚げ、そのまま何かの施設を逃げ出したこと。
男に連れられるまま、様々な場所を何かに追われるように旅をしていたこと。
男のことを、自然と父と慕うようになったこと。
なまえという名を、与えられたこと。
父と慕った男は軍の研究者で、人道に背く研究をしていたこと――その結果が、なまえであること。
長い長い旅の中で、父はなまえに己の持つ知識すべてを惜しみなくつぎ込んだこと。
いつしか父は病に倒れ、弱っていく己のことよりも、なまえのこれからをずっと心配していたこと。
父となまえを長年追い続けていた軍の人間が二人を捕捉し、捕縛しようとした際、なまえを逃がすために父が犠牲になったこと。

そして父に与えられた知識を総動員して作った装置でこの森に大きな結界のようなものを張り、引きこもっていること。

「装置ってのはトリオン反応を阻害するためのもんだ。他はどうだか知らねえが、ここに住む人間はトリオンに頼り切った生活をしてるから、俺のトリオンの痕跡さえ消せば軍の奴らに見つかることもない。だからまあ、お前の仲間が近づいてきてもこの場所が分からないと思う。教えた座標には何もないことになってる。多分連絡が来るはずだから、そしたら仲間の元まで連れてってやるよ」

「――なまえ」

重苦しい過去をなんでもないことのように語るなまえに、かける言葉が見つからない。
なんでもないように装っていても、なまえはきっと、過去を悔いているのだ。深淵を思わせる藍の瞳が、それを物語っていた。

「なんで、そこまで」

秘匿すべき内容だったはずだ。これから先、何が起こるのか分からない。迅に語った内容が、なまえにどんな影響を及ぼすのか分からない。軍に見つからないためにこうして隠棲していたなまえが――どうして、騒動の種にしかならないだろう迅を助け、そしてここまで語ってくれるのか。

「なんでだろうな」

そう、苦笑したなまえは、どこか泣きそうにも見えた。

「寂しかったのかもな。それか――もう、疲れたか」

手を伸ばした。衝動だった。
迅の指先がなまえの頬に触れる直前、通信が入る。

――迅、聞こえるか。どこにいる?

突然響いた声にびくりと体が跳ねた。動揺してまともに応答できない迅をよそに、なまえが腰を上げ、部屋を出る。
見送った背中に、どうしようもない寂しさを覚えた。



仲間との通信を終えると、迅はベッドを降りてなまえの後を追った。寝室を出ると見知らぬ廊下で、寝室から出るのは初めてだったんだと、当たり前のことに思い当たる。
物音のする方向に足を進めると、なまえの背中が見えた。綺麗に整頓された本棚から、何冊か本を取り出しているようだった。

「あの、なまえ――」

「ああ、ジン。これを持っていくといい」

ジン。
呼ばれた名前が自分のものであることを把握するのに、数瞬かかった。なまえの呼ぶ自分の名前は、イントネーションのせいか不思議な響きを持っていた。
どこかふわふわした感覚に戸惑いながら、なまえが差し出してきた本に視線を下ろす。

「え、この本」

「父の本だ。玄界からこんなところまで来るくらいだ。何か土産が必要だろう」

「いや、そんな大事なもの貰えないよ」

「いいんだ。誰かの役に立つなら、きっと父も喜ぶ」

笑いながら胸に押し付けられた本を思わず受け取ると、なまえはどこか満足げに笑った。それは、先ほどまでの悲しげな笑顔ではなかった。褒められた子供のような、どこか無邪気ささえ感じる笑みだった。

駄目だと、咄嗟に思った。このままじゃ駄目だ。絶対に、駄目だ。
そこでようやく、迅は己のサイドエフェクトが作動しないことに気付いた。なまえの行っていたトリオンの遮断する装置のせいなんだろうか。
換装できたのに、どうしてサイドエフェクトは使用できないのだろう。

今、この瞬間。
未来視の力が必要なのに。

他にもありそうだと、また本棚に向かうなまえの背中を視界に収めながら、迅は必死に思考を巡らせていた。一体、どうすればいい? どうすれば、なまえを引きとめておけるだろう。迅よりはよっぽどたくましいはずの背中が、今にも消えてしまいそうな錯覚すら覚える。

ああ、そうか、と迅は思った。
きっと、なまえは。迅が帰還したのちには――

「なあ、おれと一緒に行こう」

不意に零れた言葉は、迅の胸に響いた。悪くない提案だ。いいや、きっと、最良の提案だ。
サイドエフェクトがなくたって構わなかった。この選択が、どんな未来を招くのかわからなくても。今の迅には、最良の選択だった。
驚きの表情で迅を振り返ったなまえに気をよくして、迅は続ける。

「軍に追われてるってなら、おれたちと一緒にあっちに帰ろう。なまえの知識は有用だから、きっとボーダーでも受け入れてもらえる。ないとは思うけど、ボーダーがなまえを不当に拘束したりして、ここの軍と同じことをしそうになったら――おれと一緒に逃げよう」

「ジン……?」

「なあ。一緒に行こう、なまえ」

だから、死のうなんて思わないでくれ。
言葉の裏に込めた思いを、恐らくはなまえは明確に読み取った。知られるつもりはなかったのだろう己の先行きを、迅が気付いたことも、なまえは理解したようだった。

「ジン、俺は――」

申し訳なさそうな顔で首を横に振るなまえに、全ては言わせるまいと迅は近づいた。体当たりするみたいになまえの背中を本棚に押し付け、痛みに顔を歪めるなまえの唇に己のそれを重ねる。

「これよりすんごいことしてくれちゃったんだから、責任とってくれるよな?」

「は?」

ビキリとその場で固まったなまえに、迅はにんまりとした笑みを向ける。

「え、いや、それはトリオンを与えるためで」

「責任とってくれるよな?」

「救助行為の一環で」

「な?」


にっこり笑って言葉を重ねれば、なまえは尋常じゃない汗をかき始めた。

「………玄界って、そうなのか?」

「少なくともおれはそう」

がくりと肩を落としたなまえに、勝ったと迅は思った。

簡単に死なせてなんてやるものか。
せめて、おれに恩返しされてから判断してほしい。
どんな未来がこの先待ってるかなんて、今のおれにはわからないけど。
後悔なんて、させないからさ。



迎えにきた仲間たちとすったもんだの挙句、舌先三寸でなまえを連れ帰ることを同意させた迅に、なまえは更に逆らう意欲をなくしたようだった。

せめて、と父の残した数々の蔵書とともに遠征艇に乗り込んだなまえは迅の隣に居心地悪そうに座っていた。そんななまえに苦笑しながらそっと安堵の息を吐いた迅は、トリオン反応を阻害させる装置から離れた瞬間に復活したサイドエフェクトの予知で悲鳴をあげた。

「――ジン?」

――ユウイチ。

予知で視えた未来と今のなまえの顔が重なる。
不思議そうな顔のなまえの顔を直視できない。赤面してしまう顔を見られたくなくて迅は膝の上に顔を伏せた。

ベッドの上で微笑みかけてきたなまえが、幸せそうに笑っていることだけが救いだった。



prev / next

[ back to top ]



「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -