部誌9 | ナノ


そのミチの先



 昼間だというのにどんよりと雲が低く覆った空は暗く冷たく、秋をすっとばしてやってきた冬の気温を想像するだけで憂鬱な気分になる。ただでさえ今日は悲しくて苦しい思い出しかないのに、空までもが泣き出しそうで、半分だけ開けられたカーテンの向こうを布団にくるまったままで睨む。
 枕元の時計は既に正午を指している。10時過ぎに目覚めてから、トイレに行く以外ずっと布団で蓑虫状態だ。寝坊に気がついた瞬間から、学校をサボることは決定していた。ラジオ代わりに点けたテレビの音を聞きながら、布団の中で携帯を弄る。他人の部屋の他人のベッドで学校をサボるなんて、きっと非行一歩手前でよろしくない。これではいけないと自覚しているものの、家主がなにも言わずぼくを受け入れてくれるものだから、それにずるずると甘えてしまっていた。いまのぼくにはここに逃げ込むしか、胸の中に渦巻く喪失感や不安感、それに伴う色々ままならないことから自分を守る方法が思いつかないのだ。
 特に今日は、11月7日だから。兄が消えた世界と顔を合わせるのはしんどい。

 今日がぼくにとって特別な日になってから、ちょうど今日で3年になる。見てもいないテレビのニュースは、最近の話題に混ざって、ちらほらとぼくの感情を占める事件について報道していた。
 ――高層マンションに仕掛けられた爆弾が解体中に爆発し、多くの警察官に犠牲を出した事件から、きょうで三年になります。未だ実行犯の逮捕に至っていないこの事件について、CMの後から特集です――
 ぼくは家主のにおいがする布団を頭から被って、携帯に届いたメールをチェックする。差出人は母で、簡素な文面で「今日も家に帰ってこないのか」と問うていた。家にほとんど寄りつかない息子に、どう接していいか迷っているのがまるわかりだ。ぼくは胸の下の奥のほうがぎゅっと縮むような感覚に苛まれながら、「帰らない」とだけ返信した。
 ぼくは、兄のいない家に帰るのが嫌だ。仏壇の遺影、兄が死んでしまった事実と向き合わなければいけないのが嫌だった。今日は11月7日、兄の命日だ。
 ぼくの兄である萩原研二は、警視庁の爆弾処理班として爆弾テロ事件に対応中、爆発に巻き込まれて殉職した。信じられないほどにあっけなく、ぼくが中学校で呑気に授業を受けている間に、兄貴はマンションのワンフロアと一緒に木っ端微塵になっていたのである。兄貴は死んだ。事実として理解しているつもりでも、いまだぼくの気持ちは現実を受け入れられていない。兄貴の面影を追って、彼の親友である松田の元へ居候同然に入り浸るほどに。

 ――ごろごろと横になっているうちに、また眠りに落ちていたようだ。覚醒は突如点灯した蛍光灯によって促され、目蓋越しに射し込む人工光にぼくは呻く。そこに、ふっと影が落ち、ぶっきらぼうに話し出した。
「学校行かなかったのか」
「……おかえりなさい」
 噛み合わない会話に、松田さんが眉をひそめた。彼が帰宅するような時間まで眠ってしまったのかと時計を見るが、まだ16時半だ。
 ぼくはのそのそと起き上がり、ぐっと伸びをする。松田さんはほとんど夜のように暗くなった空を映す窓をカーテンで遮り、そのあと冷蔵庫の中身を見ていた。どうしてこんな早い時間に松田さんが帰ってくるのだろうと考え、それから部屋を横切る彼の、スーツから香るにおいに気付く。
 兄貴を悼むために松田さんが身につけている、喪服の代わりの真っ黒のスーツ。そのジャケットから香る線香のにおいに、彼が兄貴の仏壇に手を合わせてきたことを察するのは容易かった。それを察した瞬間に、どうしても表情が強ばる。
 「うちに寄ってきたの?」なんて分かりきったことは訊けなかった。きっと午後休を取って、兄貴の墓と仏壇に手を合わせ、そのまま帰ってきたのだろう。
 松田さんも兄貴の死に縛られた人だけれど、兄の死そのものに整理がつけられていないぼくと違って、彼は親友の仇討ちという形であの事件に囚われ続けている。彼の部屋でぼくが生活することを、松田さんは一度も拒まなかった。家出にも学校をサボることにも彼は口を出さず、ただ一度「薬はやるんじゃねえぞ」と言われただけ。ぼくにとって、松田さんの元はとても優しく、居心地の良い場所だった。

「ラーメン、食いに行くか」
 冷蔵庫を閉じた松田さんは、ぼそりと言った。未だパジャマがわりのトレーナーとジャージを着て寝床でぼんやりしているぼくにブルゾンを投げて寄越し、自分はさっさと玄関へ。きっと10分くらい歩いたところのラーメン屋に行くのだろうが、未だ頭もぼさぼさだったぼくは慌てて上着を羽織り、申し訳程度に髪の毛を見られる状態にして、松田の後を追った。
 未だ11月の初めだが、すっかり日が落ちるのが早くなった。今日みたいに天気の悪い日だと、余計に夜が長い。あと冷える。
 松田さんは元々口数が多いほうではないけれど、今日は特にむっつりと口を噤んでいる。ラーメン屋までの道のりも、二人で味噌ラーメンととんこつラーメンを食べている最中も、だんまりだ。ぼくはちらちらと彼の様子を観察する。兄貴の命日、例の爆弾事件繋がりで何かあったのだろうか。あったのだろう。

 ラーメンで温まった体も、秋の夜の冷気に晒されてすぐに冷えていく。まだ夕方と呼べる時間帯であるのに、あたりは既に真っ暗で、街灯の灯りに救われる。人通りもまばらな道を松田さんと並んで歩きながら、ぼくは自分の吐いた息が白く染まるのを眺めていた。隣の松田は、歩きながら携帯を開いて、得意の早打ちでなにかメールを打っている。携帯の小さい画面の明かりが、松田さんの寂しげな表情を照らすから、ぼくはぎゅうと胸が締め付けられるような気分になった。せっかく、ラーメンがおいしかったのに。
 兄貴の親友であるこの人は、とうに亡くなった兄貴へと、届かないメールを毎日送っているのだ。毎日、毎日。それだけ悔しいのか、それとも悲しいのだろうか。兄貴に会いたいと思っているのだろうか。兄貴を殺した犯人を、殺したいと思ったことはあるのだろうか。
 ぼくは一歩近寄って、松田さんのすぐとなりを歩く。ポケットに突っ込んだぼくの肘と、携帯を弄る松田さんの肘がぶつかった。
「ねえ、松田さん。仇討ちって、時代遅れじゃない? 戦国時代じゃないんだからさ」
「うっせー」
 冗談めかした指摘は、冗談っぽく流された。お互いに踏み込みたがらないぼくたちでは、これが精一杯の干渉だった。
 ぼくは兄貴の面影を求めて松田さんに縋っているけど、彼がぼくをこばまない理由の一つに、彼がぼくの容姿に兄貴を見ているからということはとっくに感づいていた。高校に入ってから、ぼくの顔立ちはどんどん兄貴に似てきている。そして松田さんはぼくに親友の面影を映して、親友を喪った悔しさを忘れないようにしているんだ。
 仇討ちなんて死者に囚われた行為でしかない。その道を選び、その為だけに日々を生きている松田が、ぼくには悲愴に見えた。

「今夜は寒くて嫌だね」



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