部誌9 | ナノ


そのミチの先



 その日も人類滅亡を目論む勢力を一掃し、見事世界を救うことができた。今回は苦戦を強いられ、激しい戦闘によってクラウスだけではなく他の構成員たちもボロボロ。さすがに全員疲労困憊といった状況でオフィスに戻るのもハバカラレ、結局その場で解散となった。クラウスはギルベルトに迎えに来てもらい、そのまま自宅へと向かう。
 車内でクラウスは珍しくため息をこぼす。何せ36時間ぶっ続けで戦闘していたのだ。さすがのクラウスも疲労が溜まる。牙狩りに入隊した当初、まだ十代であった頃ならば36時間寝ずに戦闘してもピンピンしていた気がする。自分も年を取ったということか、疲れからぼやける視界を戻すべく、眼鏡を外して目頭を軽く揉んだ。
(そういえば、なまえとどれくらい会っていないだろう)
 脳裏に浮かぶのはもう長い間交際を続けている恋人の顔であった。クラウスの恋人であるなまえは普段HLにはおらず、つねに世界中を飛び回っている。そのため、逢瀬を楽しめるのは一ヶ月、もしかしたら数ヶ月に一度の頻度だ。今回もまた長期での仕事のため、正確に言えば顔を合わせたのは3ヶ月と23日前、最後に声を交わしたのは25日、いや日付が変わったので26日前だ。結論をいってしまうともう長い間、なまえと会っていない。
(家に戻ったら、電話をかけてみようか)
 報告ではいまなまえはクロアチアにいるはず、クラウスのいるHLが0時過ぎたところならばあちらでは朝方だ。就寝中のなまえを自身のわがままで起こすなどできない。早々に無理だと判断して肩を落とす。
(一度仮眠を取ってから、電話をしてみよう)
 もしかしたらもう起きて仕事をしているかもしれない。しかし、数分でもいいから声を聞きたかった。自身の幼稚なワガママに嫌気が差し、キリキリと痛む胃を胸の上から押さえる。
 早くを朝が来ればいい。そうすれば少しはこの胃痛も収まるに違いない。そんな思いを抱えながら帰路についた。 

 だから、玄関を開けた先で恋人が立っていたときは幻だと疑った。

「おかえりクラウス、今日もご苦労さまだったな」
 労いの言葉と共にもう久しく見ていなかった笑顔がクラウスを出迎える。突然の出来事に状況が把握出来ず、呆然とその場で立ち尽くす。瞬きを数度行うが、目の前のなまえが消える気配がない。突っ立ったまま微動だにしないクラウスになまえは口を尖らせる。
「なんだよ、久しぶりに恋人が会いに来たっていうのに反応なしか」
「……すまない、一瞬幻かと」
「なんだそりゃ、だったら確かめてみりゃあいい」
 ほら、と両手を広げてみせた。未だ信じられぬ思いのまま、引き寄せられるようにゆっくりとなまえに歩み寄る。一歩、また一歩と遅い足取りでもなまえはそこから動こうとしなかった。そうしてなまえの前に立つと恐る恐る手を伸ばし、自身へと抱き寄せた。なまえは抵抗も見せず、クラウスの腕の中に収まってみせる。それに甘えて顔を近づけて髪に顔を埋めた。息を吸い込むとクラウスが愛用するシャンプーの香りが鼻腔を擽る。クラウス以外でそれを使えるのはクラウスの知る限り一人しかいない。そこでやっと腕の中の存在が本物だと認められた。
「な? 本物だろ?」
「……ああ、本物のなまえだ」
 口に出した途端、先ほどまで苦しめられていた胃痛が引いていく。なんと現金な体だろうと呆れながらも、胸に広がる喜びの方が勝った。
 3ヶ月と23日ぶりのなまえ、その事実がクラウスの胸を高鳴らせる。
 喜びのあまり無意識に力が入ってしまったようで、なまえから抗議の声が挙がったことで慌てて力を緩めた。
「ああもう、嬉しいのは分かるけどさすがに加減してくれ。俺はお前やスティーブンと違って非戦闘員なんだからもっと大事に扱ってくれよ」
「す、すまないっ……それより、なまえいつこちらに戻ってきたのだね?」
「ついさっき……と、いいたいところだが実は昨日帰ってきたんだ」
「昨日?」
 昨日といえばクラウスが戦闘中ではないか。まさか敵を葬っている間になまえとの逢瀬を一日無駄にしてしまった事実に愕然とする。ショックを隠しきれないクラウスになまえは背中をさすって慰める。
「俺がギルベルトさんに頼んでおいたんだ、ちょっとしたサプライズのつもりだったんだが……タイミングが悪かったみたいだったな」
 ここは相変わらず毎日が祭りみたいだなぁ、とケラケラと笑うなまえの呆気らかんとした態度がクラウスのショックを和らげる。そこでやっと自身の状態に気づけるぐらいにはクラウスにも余裕が生まれた。
 戦闘によってクラウスの服は酷い有様だ。衣類はところどころ綻び、シャツも血で染まってしまっている。もちろんクラウスの血ではない、全て返り血だ。なまえはいないと思っていたから、帰ってからシャワーを浴びようと思っていたというのにまさか久方ぶりの恋人の前でこのような格好を晒すなんて!
 クラウスは急いでなまえから距離を置くが、突然離れたクラウスの不自然な行動になまえは怪訝そうな顔を浮かべる。
「いきなりどうしたんだ? 尻揉もうとしたの気づいたか?」
「もっ……そういうわけではない、ただその」
「ああ、その姿のことか?」
 しどろもどろになるクラウスの様子にいち早く察したなまえは上から下まで観察する。
「確かにすごいことになってるな、おまけに臭いもひどい」
「っ……すぐに浴室へっ」
 これ以上なまえに醜態を晒す訳にはいかないとすぐさま浴室へ向かおうとする。しかし、なまえの腕がクラウスを引き留めた。
「おいおいせっかくの再会なのに俺を置いていくのか?」
「しかしこのような格好をこれ以上君の前で晒すわけには」
 血臭が酷いのであればなまえの傍にいるべきではない、なのになまえはクラウスの腕を掴んだまま離そうとしない。振り払うなどできるはずもなく、どうしたらいいか反応に困っているクラウスになまえは笑いかけた。
「バカだな、そんな格好最初に出会ったときの方が酷かったろ」
「む、そうだったろうか」
「そうだよ、血の眷属に囲われてた俺の前に現れたお前どうだった? 頭から全身返り血を浴びてるくせに真っ先に汚れた眼鏡を拭いてお前のせいで血を浴びた俺に『失礼、怪我はないかね?』なんて暢気に聞いてきたあのときのお前に比べたら全然マシなほうだろ」
「うぐっ」
 確かにあのときに比べればマシなのかもしれないが、あのときはまさかこのような関係になるとは思ってもみなかった。
 それが今では、と思いを馳せる前に頬が何かに包まれる。なまえの両手によって固定され、視界がなまえで埋められる。
「そんなに浴びたいなら、俺も一緒に連れてってくれよ」
「? もしやまだ入っていないのかね?」
「バカ、もう先に入ってるよ」
「ならば入る必要は」
「後ろの準備も全部済んであるが、クラウスと一緒に入りたい」
 ここまでいえば分かるだろう?首を傾げて微笑んで見せる。ごくりと生唾を飲み込んだ。
「……その、久しぶりだから」
「明日はオールオフだろ、よしよし頑張ったクラウス君にはご褒美をやるよ」
 指先でクラウスの耳を擽りながら舌なめずりをする唇に、クラウスは目が離せなくなる。もはや躊躇う理由などなかった。なまえの両手を頬から外し、すぐさま横抱きをして歩き出す。
「ギルベルト、服の用意は」
「浴室にご用意しております」
「ついでにローションも用意済みだぜ」
「承知した」
 ずかずかと長い廊下を大股で渡りながら、腕の中で大人しくしてるなまえに問いかける。
「ここにはいつまでいるのだね」
「うーん、来週までかな」
「ならば来週まで君をこの家から出さないでおこう」
「えっ」
 鼻歌を歌うほどご機嫌だったなまえの顔が一気に青褪める。カクカクとまるで油が切れかかった機会のようにクラウスの顔を見上げる。
「え、ええとクラウスさん……?」
「ご褒美なのだろう、ならば思う存分なまえを堪能させてもらおう」
 先に誘ったのは君なのだから、責任は取ってほしい。
 クラウスの宣告になまえは石化する。時間を数秒置いてから、神への祈りを捧げ始めた。クラウスが本気だと思い知ったなまえにクラウスはほくそ笑む。今夜は戦闘により未だ高ぶりが収まっていない。なまえには悪いが今晩は、いや明日まで付き合ってもらおう。
 この廊下の先にある浴室まで、あと数メートル。クラウスの足取りは先ほどよりもずっと軽やかであった。



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