部誌9 | ナノ


そのミチの先



一通のメールが届いた。
内容は『話がある』とだけの簡素なもので、無駄に不安になった。
待ちに待ったメールだった。いや、待ってなんか居なかった。来るはずのないメールだった。無駄に、無意味に、感情を揺り動かされて、居てもたっても居られなくなった。
タクシーに飛び込んで、飛行機のチケットを買って、眠れないままに空の上で過ごして、知らない異国の、深夜の街で乗り継ぐ公共交通機関を失って、タクシーに乗ろうとして思いとどまった。
犬みたいに、呼ばれたらかけていくなんて馬鹿みたいだ。
タクシーを呼び止めようと上げた手を下ろしてなまえはホテルを探すことにした。簡素なビジネスホテルの一室をやっとのことでとって、シャワーを浴びて白いシーツに仰向けに倒れ込んでいると、また、メールが届いた。
『どこにいる? はやく会いたい』
もっと前に、その言葉を聞きたかった。そう思いながら、嬉しくて、嬉しくて仕方ないのが馬鹿みたいだった。
馬鹿だ馬鹿だと思いながら、なまえは返事のメールを書いた。
『明日の朝、一番で着く』
待っていて、と書いた文字を一文字一文字消しながら、涙で画面が滲んだ。

カラッと晴れた空。なまえが前日まで居たリゾート地ほどではないにしろ、十分に温かい。いい天気だと青い空を見ながら思う。ひどく乱れた心は、数時間の睡眠で不思議と凪いでいた。
結局のことろ、タクシーに乗ってやってきたなまえは、寂れた町並みに逸る気持ちをおさえて、スーツケースを引く。中身はちょっとした衣類と、それから、仕事道具。
なまえの仕事はデザイナー兼テーラー。簡素にいうと、服の仕立て屋だ。なにかと有名になったお陰で、自身のブランドを持ったり、一点もののドレスをセレブに仕立てたりという仕事が多めだった。だった、というのはなまえが今、休業期間に入っているせいだ。少し休みたい、というのが顧客への説明だったが、実際のところは、モチベーションが上がらないというなまえのわがままのせいだった。
モチベーションが上がらない理由は、自分ではよくわかっていたが、それは他人には説明出来ない理由だった。
布製の看板らしきものを見上げながらなまえは、やっとのことで足をとめた。足をとめてしまえば、もう、ここに向かって進むことが出来ない気がして、必死ですすめてきた。ここまで来てしまえば、もう、引き返すことはないだろう。
資料でしか見たことのない風景に、ほっと息を吐く。これは、もう少し別の機会にじっくりと見てみたかったかもしれない、とこじんまりとした佇まいの家屋をぼんやり眺めた。
今まで急くようにしていた歩調を、今度は一歩一歩踏みしめるようにして、歩きはじめた。
わん、と聞き覚えのある声がする。知らない土地で、この声を聞くのが不思議だった。
「マッカチン」
名前を呼ぶと、もこもこしたものが一目散になまえの方へかけてきた。スタンダード・プードルはでかい。それを受け止めるとなれば、少しばかり気合を入れないといけない。なまえはスーツケースから手を離すと、マッカチンを受け止めるために身体をかがめた。
わん、わんと吠え立てながら駆け寄った犬は、最後の数歩をジャンプするようにしてなまえの腕の中に飛び込んできた。
「元気だったか」
抱きとめながらたれた耳に囁くようにつぶやくと、それにこたえるようにマッカチンがワンと吠えて、なまえの口元をべろべろと舐め始めた。
「舐めなくてもいい」
笑いながらなまえはその体を引き離そうとするが、大型犬のスキンシップを遠ざけるのはなかなか難しい。
「なまえ!!」
マッカチンの飼い主の声がした。ゆるゆると、顔を上げる。その顔を見るのが怖くて、おっかなびっくりと顔を上げた。
「元気だったか?」
奇しくも、彼、ヴィクトル・ニキフォロフはなまえが犬にかけた言葉と同じ言葉をなまえに向かってかけながら、彼の愛犬と同じように、なまえの腕に飛び込んできた。成人男性に飛びつかれたなまえは、尻もちをついて、倒れ込む。
元気じゃないか?
ぎゅうぎゅうと飼い主に抱き潰されて、マッカチンがゴゾゴゾとなまえとヴィクトルの間から退避した。正しい判断だとなまえは思いながら、犬がしたのと動揺に、なまえの口元に唇を付け始めた男をなまえはやっとのことで引き剥がした。
「何してるんだ!?」
「マッカチンはよくて、俺はだめなのかい?」
「はぁ!?」
何か、彼と自分の間に重大な思い違いがある気がして、なまえは大きな悲鳴を上げた。
そのなまえの動揺に気づかない様子で、ヴィクトルが何かを思い出したようにさっさと立ち上がりなまえに向かって手を差し伸べた。
「そうだ、なまえに早く聞いてもらわないといけないんだった」
そんなことを言いながら、ヴィクトルははやくはやく、となまえに手を取るように促す。
王者のような風格でそう言われるとなまえは従わざる得ない。そして、益々嫌な予感がした。
「おい、話っていうのは」
「それなんだ、早く来てくれ!」
ヴィクトルはなまえの手を無理につかむと、ぐいぐいとそのまま引っ張っていく。銀髪の貴公子のような男、ヴィクトル・ニキフォロフはスケート選手だ。去年の王者だったが、今年は引退して日本人の選手のコーチについたらしい、ということは、実はなまえは今朝検索を行ってはじめて知った。
彼と親しい仲にあるにも関わらず、知らなかったのはなまえが彼に関する情報を意図的に遠ざけていたからだ。そして、今なまえは調べていなかったことを猛烈に後悔し始めていた。
「荷物!」
手を引くヴィクトルに言うと、彼はその宿の従業員らしい人に、よろしく、と軽く言葉を投げる。それに心得たというように頷く従業員になまえは自分の嫌な予感が大方当たっていることを予測した。ヴィクトルに手を引かれて、なまえは顔を引き攣らせながら建物の中に引っ張り込まれる。
靴を脱ぐんだ、とか、慣れた様子のヴィクトルになまえは、まさか、といいかけて口を引き結んだ。結論を先延ばしにするのはなまえのよくない癖だったが、現実逃避くらいは許して欲しい。
明らかに、旅館のバックスペースに引っ張り込まれながら、なまえはヴィクトルの後ろ姿を見た。
いつもと変わらない。いつもと同じ姿。
なまえを振り回して、ひきつけてやまない姿だった。
「ユーリ!!」
ばん!と扉を開く。明らかに、誰かの私室らしい部屋の扉をノックもなしに開けたヴィクトルは、ずかずかと中に入り込んで、布団を引き剥がした。
「見てくれ、これなんだなまえ!」
寝起きで、大混乱しているアジア人の男の子の首をつまみ上げて、誇らしそうにヴィクトル・ニキフォロフはなまえに向かって言い放った。
そして、なまえは自分のよくない予想が的中したことを知った。

「慌てすぎて、すまなかった」
そう言いながら頷くヴィクトルの横に、寝込みを襲われたユーリ・カツキが座っている。彼に同情しながらなまえは、ヴィクトルから話を聞いた。
「新しい、フリー・プログラム用の衣装を仕立ててほしいってこと?」
そうそう、というヴィクトルになまえはため息を吐いた。
「オレさ、休みって言わなかった?」
「ようするにヒマってことでしょ?」
「どうしてそうなるのさ」
そう言いながらなまえは自分の仕事道具の入ったスーツケースを開く。
「まぁ、やるけどさ」
ヴィクトルのアイデアを聞くのは、楽しい。彼が着る服のオーダーを聞くことも自分のアイディアを盛り込むことも、好きだった。
なまえが有名になったのは、彼の服をデザインしたことが、第一歩だった。なまえの人生は、ヴィクトルのスケート人生と一緒にあったと、そう言ってもいい。まだまだ駆け出してもいなかったなまえとヴィクトルが国境を超えて出会って、一緒に仕事をするようになったのは、奇跡と言っていいかもしれない、とロマンチストを自称するなまえはそんなふうにも思う。だけれども、同時にそれは、なまえがヴィクトルに振り回されてきた歴史の一部でもある。
「脱いで」
真顔でメジャーを引きながらなまえはアジア人の青年に言い放った。真っ青になっていたナイーヴそうな青年は、青い顔をあっという間に真赤にする。それを見ながら、なまえは言葉選びを間違えたことを悟りながら、フォローをコーチを自称するヴィクトルに促す。
「よしわかった!」
何を勘違いしたのか、ユーリの服を剥きはじめた男に、なまえは顔を覆った。
大抵、ヴィクトルといるときはこんな調子だ。あっちこっちにメジャーを当ててメモをとりながら、ヴィクトルのイメージというものを頭の中で構成していく。
寝ぼけているときは、凡庸な容姿の青年だとそう思っていたけれど、曲を聞かされて、スマフォでとったスケートをみせられて、ユーリを目にすると、驚くほどにヴィクトルのイメージがすんなりと自分の中に入ってくる。
多分、趣味が似ているのだとなまえは思う。
「いけそう?」
「工房に一旦持ち帰れば、行けるな。微調整はもう一度ここに来る」
そんな計画を立てながらなまえはそういう。旅費は、なんて細かい試算をこの青年にする気はない。多分何も考えていないヴィクトルに振り回されているだけだとわかっている。
多分コーチ料その他もろもろがそうだろう。ここはこっそりと、バカンス中の自分がヴィクトルに貢いだ金として計上するのがいいだろう、となまえは思った。
今まで沸いてこなかった仕事への意欲が湧き出してくるのは不思議な事ではない。だって、なまえが仕事をしたくなくなったのは、ほぼ全て、ヴィクトルに起因するのだから。
「今日はここに泊まっていくでしょう? ベッドをね、買ったんだよ。大きいからなまえもいっしょに寝れるよ」
のうのうとそんなことを言ってのける彼に、なまえは舌打ちをひとつした。
「おい、ヴィクトル、お前まさかとは思うが」
「ヴィーチャって呼んでよ」
そんなことを言いながら頭を撫でるヴィクトルをなまえは胡乱げに睨みつけた。
「その顔は……俺は、もしかして何かを忘れている、かな?」
ふむ、と何かを思い出す姿勢になったヴィクトルに、なまえは頭を抱えた。
「……俺は、一年前、お前と……別れたの……まさか……、覚えてないのか」
「え、それは初耳だ」
え、別れ!?と隣から声がする。うっかり忘れそうになっていたが、まだ横に、彼が居た。我ながら抜けていると思いながら、なまえは大きなため息を吐いた。
「……もしかして、一方的に君が言ってたアレのこと?」
ヴィクトルと自分の認識の違いに思いを馳せながらなまえは控えめに頷いた。それに、ヴィクトルはアレかぁと言いながらうんうんと頷いた。
「俺は、同意した覚えはないんだけどな」
「一年も連絡よこさないでいて、か!?」
「俺も忙しかったし」
「はぁ!?」
「それに」
ヴィクトルは言葉を区切る。彼がこんなふうに、何かを言うときは大抵、図星で、ろくでもないことを言われるときだった。なまえは顔を引き攣らせながら、覚悟を決めた。
「なまえが俺と別れて、仕事を休んで、一体何ができるの? 俺はなまえの創作の泉なんでしょう?」
堂々と、そんなことを言ってのける。
恥ずかしげもなく、自分のことを「創作の泉」なんて言ってのける男は世界広しと言えどこの男だけなのではないかとなまえはそう思う。
「どうせ、俺に会ってないから碌なものが作れなくて仕事休んでたんでしょう?」
ニコニコという男は、たしかに、なまえの女神だった。
そのことを改めて本人から突きつけられてなまえは頭を抱えてその場にへたり込んだ。

「……俺が、馬鹿だった」

今更気づいたの、と言って笑う、ヴィクトルの声を聞きながら、なまえはひどく安堵した自分を認識していた。



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