部誌9 | ナノ


同じ未来を生きる為に



差し出されたその手をとるには、明らかにおれは役不足だった。




「すきだよ」

湯煙の立つ庭で、あざとくこてりと首を傾げて告げたのは、リヴィング・レジェンドと呼ばれる、フィギュアスケートの頂点に立つ男だ。何の接点もなかったはずのおれが、こうして彼の前に立っていることすら夢のようだ。
ごくりと息を飲む。喉を通る感触がやけにリアルだ。

「俺は明日、ここを出る。なまえ、一緒に行かないか?」

これは、まぎれもない現実なのだ。

フィギュアスケートなんて、ニュースで話題にされてるのを知るくらいだ。おれは所謂ブラック企業から命からがら退社して、親戚の勝生家にお世話になってた。都会から離れたとこで、温泉宿で働きながらちょっとゆっくりすればいいって親がすすめてきて、心身共に疲れていたおれは、言われるがままに佐賀まで来た。
物心ついてからはあったこともない勝生家の人々は、おれを優しく迎え入れてくれた。親戚の集まりも仕事でキャンセルしていたおれのことを心配してくれた。おれはそこの一人息子がフィギュアをやってることすら知らなかったっていうのに。
佐賀の人々は、急に現れたおれにも優しかった。常連が多い「ゆ〜とぴああかつき」で、おれはおっちゃんやおばちゃんに構われながら、ようやく働くことの楽しさってやつを思い出せたんだと思う。

そうして1年が経って、ひとり息子である勇利が帰ってきて。
わずかばかり覚えていたあのオチビの勇利は、ニュースに出るほどの有名人だったらしい。すげえなあと、そんな感情しかわかないおれは、やっぱりテレビを観るという習慣がつかなかった。ニュースをつけても惰性で観ているのはブラック企業に勤めていた時から変わらずで、だから勇利についてきたらしいフィギュア世界王者のヴィクトル・ニキフォロフのすごさもイマイチわからないままだ。
そこらの客にするように対応してたら、何故か気に入られてしまったらしく、勇利が引くぐらいには多分、構われていた。今考えればあれはアプローチされてたんだろう。

心が壊れはしなかったものの、とんでもなく弱っていたおれは、人の優しさに弱い。同性なのに見てて何故かドキドキするヴィクトルに優しくされて、好きになるなと言う方が無理だ。
だけど――だからこそ、だ。

だからこそ、おれは彼の気持ちには応えられない。

「ヴィクトルの気持ちは嬉しいけど……ごめんなさい。その申し出は受け取れない」

弱ったおれの心は、この気持ちが恋や愛といったものなのか、それともただの依存なのか判別がつかない。おれって同性もいけたんだ、なんて新しい発見もしたけど、それ以前にこの気持ちが本当なのか、おれにもわからないんだ。

学生時代、ままごとみたいな恋をしたことがある。
きっとこれは一生モノの恋だって、彼女の手を握りながら思ったことがある。その気持ちも破綻した。いつしか気持ちは薄れてしまった。
でも、あの頃抱いたキラキラした気持ちを、今のおれが持ってるとはどうしても思えない。

就職して、恋愛してる余裕なんかなくなって、必死で仕事にしがみついた。あの頃は若かったよな、なんて振り返る余裕もなくて、来てほしくない明日のことを考えては死にたくなった。学生時代の何も知らないときもおれとは違う。世間ってものを多少は知ったつもりになった。だけど結局、会社って狭い世界で生きてただけで。

世界を相手に戦い、飛躍したヴィクトルとは、何もかもが違う。
どうしてヴィクトルは冴えない日本人のおれなんかに目を留めてくれたんだろう。彼の優しさに触れる度、おれの心はそわそわと湧き上がった。まるで特別な人間なんだって、錯覚した。
見つめられて、指先が頬に触れる度、どきどきした。息すら忘れて、その美しい顔に見入った。触れた唇は柔らかくて、そのこと以外何も考えられなくなった。彼の一挙手一投足に、おれは翻弄された。

ねえ、ニュースを観たよ。おれが唯一、まともに観るテレビ番組だ。そこではあなたが勇利のコーチになったって話題とともに、あなたのこれまでの軌跡が紹介されていた。
夢から、醒めたような心地だった。

だってそうだろう、あなたはスターで、生きる伝説で。日本にいるのが、おれの目の前にいるのが信じられないような、そんな特別な存在で。

好きだと告げてくれる、ヴィクトルの気持ちを否定したい訳じゃない。その気持ちを嬉しいと思う。でも、おれは冴えない一般人で、あなたに釣り合うような立派な人間ではないし、あなたの隣に立てる自信もない。
おれには自信がないんだ。自分の気持ちにも、自分自身にも。

「――あなたにはおれよりお似合いのひとがいると思うな」

思わず零れてしまったのは、おれの偽らざる本音だ。不快そうに眉を顰めるヴィクトルに、おれは苦笑しか返せない。ヴィクトルの気持ちを否定するような言葉でも、おれの、どうしようもない本音なんだ。

例えば。
おれが可愛い女の子だったら、話は違ったのかもしれない。喜んであなたについていきますと、そう言えたのかもしれない。
でも、おれは男で、彼についていく、なんて言えるはずもない。おれの足はこの温泉宿に根付いてしまった。ここの仕事が楽しくて、ここにいたいと思えるようになった。ここを離れればおれには何もない。

何もないんだよ、ヴィクトル。
そしておれは、そんなおれがあなたの隣に立つのを許せそうにない。

「よく、わからないな……俺がいいって言ってるのに」

苛立たしげなヴィクトルの様子を、レアだな、なんて下世話なことを思った。いつもにこにこしているヴィクトルが、今みたいに苛立ってたりするのを、おれは見たことがない。

「君が好きだよ。傍にいて欲しい。君も俺と同じ気持ちでいてくれるなら、拒否する理由はないんじゃないかな」

だって、それだけが総てだろう?
そう言葉を落とすヴィクトルの感情はとてもシンプルだ。おれの気持ちなんてお見通しだと言わんばかり。だけどおれの中で、ヴィクトルへの想いは複雑で、それだけだと言いきれない。
好きだって気持ちだけであなたの傍にいるのは、おれには難しいことなんだよ。

刹那的な考えが出来ればよかったのかもしれない。今だけが総てだと思えたなら、きっとヴィクトルの手をとれたはずだ。
だけどおれは、未来を考えてしまう。一度辛い目にあったからこそ、もうあんな思いはしたくないと、予防線を張ってしまうのだ。辛いのも、悲しいのも、死にたいと明日を嘆くのも、もう嫌だ。ようやく息をつけたこの地を、おれは離れたくない。甘えだって言われるかもしれないけど、それでも。

「――つまり、俺はまだそこまで君に好かれてないってことか」

差し出されていた手が、降りた。そのことを惜しく思うのは、おれの我儘だ。拒否したその手をおれがとることはできない。
申し訳なさに俯けば、ヴィクトルが一歩、おれの方へ足を踏み出した。思わず視線を上げれば、顎の下に指を差し入れられ、くいと上を向かされる。

驚くほど近い場所に、ヴィクトルの顔がある。
あ、と何かを思う前に唇が塞がれた。慣れてしまったこの行為に、自然と瞼が落ちる。ふわりと香るヴィクトルの香りと、その柔い感触に、何故だか泣きそうになった。

「諦めないよ」

触れるだけの口づけが終わると、ヴィクトルはおれの頬をその両手で包み込み、無理矢理視線を合わせながら告げた。冷えていたのだと、ヴィクトルの手のひらの熱を感じることで自覚する。

「諦めない。何度だって、俺は君に告げる。愛してるって、心から」

だから、とヴィクトルはふわりと笑った。

「覚悟していて、なまえ。俺は、君と同じ未来を、絶対に諦めないから」

その言葉が、どうしようもなく嬉しくて、申し訳なくて、おれは泣いた。
朝焼けが眩しい、冬の早朝のことだった。



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